タグ:雑記 ( 36 ) タグの人気記事

文化的景観

松戸の新居に引っ越しました。友達とのシェアです。
部屋のインテリアとか考えてぬふぬふしちゃうけど金がないので実現には至りませぬorz
とりあえずミニコンポだけはケチらずにいずれ買いたいので、節約生活をする。
家計簿つけよう。これまで3回ほどチャレンジして一瞬で挫折してきた家計簿だけど
最近は筋トレにジョギングに続いてるのでちょっと期待。ってかやろう。

大学が徒歩5分の場所になったので好きな時に図書館に行けるようになったのが最高。
でも今まで延滞しすぎてもう借りることが出来ないので、持ち出しはできないのは最悪。馬鹿俺。

もう4年。卒論のテーマ決めで悩んでます。

「景観」という言葉。景観法という法律があるにもかかわらず定義はされていない変な言葉。
今まで景観は「美しさ」を基準に評価されていた。
大正8年の史跡名勝天然記念物保存法から平成16年の景観法に至るまで、それは一貫している。
そこに文化的景観という言葉が出てくる。

文化的景観とは
地域における人々の生活または生業および当該地域の風土により形成された景観地で、わが国民の生活または生業の理解のために欠くことが出来ないもの。

つまりは、棚田であったり、京都宇治のようなものをいう。
文化的景観と、例えば法隆寺のような文化財とはどう違うのか。
法隆寺という、すでに出来ているもの、変わらないものについては、それを維持することは可能だ。
しかし文化的景観は、活動があって初めて成立、持続している景観だ。
法隆寺は、変わらないある固定のものを維持していけば良いのに対し、
文化的景観が守るべきものは、その活動だというところに大きな違いがある。
文化的景観は生きている景観であり、人の活動によって成り立っている以上変化するのが自然な景観なのである。文化的景観は美しくある必要はない。

文化的景観は変化するもの。でも、その変化にも許容範囲がある。
例えば宇治に高層ビルが林立してしまえば、それは破壊だと言えるのではないか。
じゃあ何が変化の許容範囲内で、また範囲外なのだろうか。

それは
生命体としての自己組織化の原理
に基づいているかどうかではないか。
つまり他に頼ることなく、それ自身のみで存在することが出来るかどうかだ。
文化的景観は生き物であり、自己組織化する。
また人間が、私が私であることを保持できるのは、自分の過去の記憶が不可欠である。
文化的景観の保護と言うとき、それは
「自己組織化」と「自己同一性」
の保護と言えるのではないだろうか。

文化的景観のような生きている景観に対し、ロボットのような景観が増えている。
文化的景観自体も、人手不足だったりして存続の危機に陥っているところを見ると、ちゃんと生きているとはいい難い。

生きている景観を保全、つくり出すためにはどうすればいいだろうか。

表出されたものから、表出するものへ。

オギュスタンベルクの文章にもあった気がする。
「見る」風景から、「参加する」風景に変わっていく必要がある。
景観がいろんな層から成り立っているということを、それぞれが理解しなければならない。
オギュスタンベルク「日本の風景・西欧の景観―そして造景の時代」より
すなわち新しい風景は、西欧で近代の風景の危機から生まれたポスト二元論と、世界が知るようになったもう一つの大きな風景の伝統つまり東アジアの伝統において前提とされる非二元論、この両者の総合から形をとることになるだろうということである。…この新しい風景を『造景』と呼ぼう。
造景の時代への移行は必ずしも風景美の時代への移行を意味しない。けれども…環境をイメージとして生きることは、必然的に美的な配慮を、すなわち美を創りだそうとする真摯な欲求を伴う。




僕が今までうまく言葉にできなかった綺麗な景観というのは、つまり生きている景観だったかもしれない、と思う。
パーマカルチャーとも関連するんじゃないか。
[PR]
by santos0113 | 2010-04-02 21:14 | diary

東洋の理想

卒論はあくまでランドスケープの研究。
社会問題の研究ではない。
「何か注目されない仕事」ではなく
「何か注目されない仕事があることでランドスケープ上問題になっている事例を探す。」
いやどちらかといえば
「ランドスケープの問題を解決するために、注目されない仕事に焦点をあてる。」

不安定になっている。焦ってる。集中できない。
本の内容が全く頭に入って来ない。
昨日大学の友人と会った。ひどい態度をとった。
誤解を招かないような口が欲しい。

東洋の理想 (講談社学術文庫)

岡倉 天心 / 講談社

スコア:


岡倉天心の書いた本。
もう一度必ず読み返そう。全然頭に入らなかった。
日本はアジア文明の博物館となっている。なんとなればこの民族のふしぎな天性は、この民族をして、古いものを失うことなしに新しいものを歓迎する生ける不二元論の精神をもって。過去の諸理想のすべての面に意を留めさせているからである。

日本は古くから様々な文化を吸収して、それを自分たちなりの文化にしてきた。
受けた影響を、どんなに巨大でもこれを受容して改めて応用するための豊かな活力があった。
明治時代に大量の文化が流入しても、国民がバラバラになることがなかったのは日本の粘着性によるものだ。日本の奥底にはアジア文明が詰まっていて、そこから大きく離れることは無い。
日本人にこそ出来ることが確実にある。そして日本を正しく理解するためには、日本文化のみならず、その根底となるアジアの文化も知る必要があるだろう。
日本人であることを誇りに思いたい。僕は中高生の時日本が嫌いだったし、現代の多くの子供たちも同じじゃないだろうか。
正しく日本を知りたい。
モノの豊かさ=心の豊かさではないとだんだんみんなが分かってきている今、かならず日本の文化が見直される時が来る。気がする。
六世紀に仏教がこの国に渡来する以前、原始日本の芸術全般の上に及んだ大陸の影響の最初の波は、中国の漢および六朝のそれであった。…その芸術の概念は、大まかに孔子的(儒教的)と呼んでよいであろう。

儒教的中国がインドの理想主義を受け入れることは、もし老荘思想と道教とが、周朝の末以来、これらアジア思想の相互に対立する両極の共同の展開の為の心理的基礎を準備していなかったならば、けっして行われることのできなかったことであろう。


僕が感じることや、その行いには古くからの文化の大きな流れがある事を知らなければならない。
自分一人でどうにかなったことではなく、その根底に文化がある。
そしてその文化を知ることは、現代における日本の皆を知ろうとする姿勢ではないかと思う。



落ち着いた。
僕は間違っていない。そして友人も先生も誰も間違っていない。
理解などされなくても、僕は理解されようと、しようとする姿勢を諦めてはいけない。
[PR]
by santos0113 | 2010-03-24 18:15 | book

走ること 瞑想すること

上の二つは何か似通った部分があるように感じる。

最近、寝る前にちょっと目を瞑って何も考えずに集中する習慣をつけている。いわゆる瞑想かな。
瞑想というと何か修行のようなイメージを受けるけど、イメトレみたいなもの。
気付けば何かの考えにとらわれがちになるけど、そういうのを全部無視すると、確かに一瞬一瞬ではあるけど何も考えていない瞬間が確かにある。

走っている時、無理がなくいつまでも続けられるような走りの時は、「走っている」という意識が無く、むしろ「走っている」状態が普通の自分のようになっている気がする。
つまり苦しいとかキツいとかそういう感覚はなく、気付いたら無意識の内に前に進んでいた、という感じ。

自分の外面に張っていたものを取っ払って、何も構えていない状態になる感覚。
体は走っているんだけれど、中の自分は臨戦態勢でなくなる。
だから走ったり、全力でスポーツすることは気分転換になるのかもしれない。

瞑想することも、それと変わらない。
少しはまる。
[PR]
by santos0113 | 2010-03-20 22:25

光と陰

b0164273_10184999.jpg

共通する綺麗な景観なんてものは無いのかもしれないけど、それでも僕は今、綺麗な景観を見つけようとしている。
それと直接関係するわけではないけど
急に思い出した。
大学で教授が言っていた言葉。うろ覚えだけど…

「君らが太陽に照らされたら、影ができるだろ?それと同じように…
街には光と陰がある。」

今思えばちゃんと出席しておくんだったと思うけど、仕方ない。
ここで言う光とは、みんなが求めるようなキレイで安全な景観であり
陰とはつまり、みんなが避けるような風俗街のようなものを言う。

ほとんどの人は街全体が光あふれる街を期待する。
もちろん僕だってそうだ。僕自身、そして僕の大切に思う人達の身の安全を一番に思う。
でもどんな場所にも陰と呼ばれる部分はある。
それは一人の人間にしてもそうだ。僕にも陰の部分がある。
それでもそんな陰の部分と何とか折り合いをつけて関係を成り立たせているのが人間だろう。

でもそれが街となると、違ってくる。
みんなが陰を避ける。陰はどんどん追いやられていく。いずれ陰は集まり、集中するようになる。
光あふれる街をつくり出したことで、陰に覆われた街が現れる。

光を求めるあまり、何かを犠牲にしている可能性もある。
[PR]
by santos0113 | 2010-03-19 22:32

願い

b0164273_2223040.jpg

友人が妊娠したそう。

あぁもうそんな人が同級生から出てきてもおかしくないんだな、と思う。
おめでとう、と祝福。大丈夫か、と少し心配。

僕にはまだ、早すぎる。
自分の子供に何かを教える以前に僕自身が子供だしな。
いつか覚悟はできるのだろうか。

彼女は親兄弟に反対されたそうだ。
それはそうだろう。僕が同じ立場でもきっとそうする。
でも堕ろさない、と彼女は言う。
本人がそう言うのであれば、覚悟が出来ているのであれば、
少なくとも親は応援すべきだと、そうあってほしいと願う。
そして彼女らが健やかである事を願う。
[PR]
by santos0113 | 2010-03-19 09:41 | diary

J-POP


J-POPが好きじゃない。

自分の偏見とか何か頑なさがそうさせているのかもしれない。と思っていた。
いや、それも確実にあることは認めよう。
けれどそれだけじゃない、この前のハイチの件でも言ったことだけど、何か説明できないものがある。
「何か伝わってくるもの」

好きなアーティストだっているんだけど。
Mr.childrenも、くるりも、Dragon Aahも大好きだ。
RIP SLYMEも、マッキーも、安室ちゃんも好きだ。
イエモンの
「あの偉い発明家も 凶悪な犯罪者も
みんな昔 子供だってね」
って歌詞はいつも泣きそうになる。
上にあげたけど最近charaも好きだ。もう10年以上も前の曲だけど。

ふと浮かんだことだけど 確証はないけど
みんな、それぞれの音楽からそれぞれの辿ってきた人生を感じられる気がする。
「自分の仕事をつくる」にあった「こんなもんでいいや」という姿勢は少なくとも感じない、気がする。
それぞれに真剣みを感じる。
何だか一対一で対話しているような気分にさえなる。

逆にJ-POP全体における「こんなもんでいいや」的姿勢だと思える部分は
なぜ歌詞があんなに同じようなのばっかなのか。
メロディだってそう、聴いたこと無くても何となく先が予測できる曲もある。
出てきた当時は面白いと思えたアーティストが、何だか他と同じようになっていく。
それは音楽のファーストフード化と言えないかな。

デザインを少しやっている自分としては、アーティストがみんな同じような物を作るのはあり得ない。
それぞれに人生があって、同じものに対しても感じ方が違うのが人間の面白いところではないかな。

もちろんJ-POPがあってもいいとは思う。
聞き覚えのあるメロディってのはそりゃ取っ付きやすいだろうし。
それが好きだという人はそれでいい、問題ない。僕だってたまには聴きたい。
でもいつもは聴きたくない。押し付けてもらいたくはない。

ただ、少しは思う。押し付けるつもりはないんだけど
ちょっと他の物にも手だしてみろよ、パクチーだって慣れれば意外とうまいかもよ。って。
僕も音楽にそんなに詳しいわけではないけど。そしてパクチーは嫌いだけど笑


最近車の免許を取ったので中でいつも流している、ケミカルブラザーズのstar guitar。

最近知ったんだけどPVの背景は、それぞれの音とリンクしてる!!
すごいアイデア!!
何か思わず一つ一つの音に集中してしまう。
[PR]
by santos0113 | 2010-03-17 18:23 | music

3月17日 日記

今日の新聞で
「殺人容疑で母親逮捕」
の文字。
夜も眠れないほど育児に疲れ、子供をかわいいと思えないことが何度もあった。
夫と交際していたころの生活に戻りたかった。

虐待死事件が多い。
無責任に子供を産むなと責めることはいくらでも出来る。
でもそれはあまりに酷であり、社会をこのようにしている問題がある。
単に保育所が少ないとか、そういうところじゃない。もっと、奥深いもの。
死ぬと分かっていた
殺意は無かった

矛盾しているようだけど嘘をついているわけでは無いと思う。何となく。
愛には努力が必要だ。
そこに問題があると、断定は出来ないけど。


最近読書をして、色んな事を発見する。
もし同じ本を2年前の同時期に読んだとして、同じような発見が出来ただろうか。
出来ない、と思う。
きっと僕は僕なりに一応成長している。
今あって2年前に無かったものは色んな経験だ。出会いだ。
後悔したこともあるが、それも全部活きていると実感する。
これこそ僕の探していた本だ!と思うことが多い。
きっと僕は経験を通して漠然と感じていたことを、言葉にして吸収しているんだと思う。
そしてその作業はとても楽しい。
[PR]
by santos0113 | 2010-03-17 08:40 | diary

3月16日 日記

なんだか読書の気分じゃないので、少しぼーっとする。
「世の中の役に立つ」ということについて考えてみる。
世の中の役に立つこととは、何か問題を解決すること。これが浮かんできた。
問題ならたくさんある。
しかし内田樹も言っていた。
まだ誰も注目していないような問題とは何だろう。
漠然と考える。もちろん何も浮かばない。
問題、というのがいまいちわかりづらい。
僕が僕に対して問題だと思うときは、どんな時だろう。
苦しい時かな。

すでに誰かが苦しんでいるけれども、誰も注目していないようなこと。
いずれ誰かが苦しむことが予想されるけど、誰も気づいていないこと。

少し分かりやすくなったかもしれない。浮かばないけど。
でもそれは意外と日常に転がっていたりするのかもしれない。
[PR]
by santos0113 | 2010-03-16 16:06 | diary

チャリティほにゃらら

昨日3月14日、「Love for haiti」に行ってきた。
MINMI、若旦那主催のハイチ地震被災者のためのチャリティライブだが、いまいち楽しむことが出来なかった。
なぜ?抑え気味の曲が多かったこと。これは確かにあるのかもしれない、けど大きな原因は絶対それじゃない。
ずっと違和感が解けないまま、8時間に及ぶライブを聴いていた。
周りのお客さんは楽しんでいるようだ。問題は自分にあるのかも。
けど友人もしかめ面で「何か、ちゃうねん」とひたすらに言っていた。
この違和感は何??

暇なので、一日たった今、ちょっと考えてみる。
そもそもの違和感は、
二グループ目のアンダーグラフの時に始まった。

僕はアンダーグラフを全然知らない。
それは問題ではない、と思う。
全く知らない曲であったとしても、経験上伝わってくるものはある。(ん、何か曖昧…)
実際、そのあとのcharaのライブは素晴らしかった。
僕はcharaを全然知らない。
曲も知らなかったけれど、何か伝わってくるものがあった。(表現できない)
別に僕はアンダーグラフを否定したい訳ではない。
けど正直に言って、アンダーグラフの後、どっと疲れた。本当に。ぐったりするほどだった。
それがcharaが終わった後に元気になっている不思議。

charaにあってアンダーグラフに無かったもの。
一つは、さっきからうまく表現できない「何か伝わってくるもの」だろうか。
二つ目に、charaがハイチ地震について何も触れなかったことだ。それが意識的なのか分からないけど。
僕にはそれがとても好印象だった。
違和感の始まり、それはアンダーグラフの
「ハイチに愛を届けましょう!!」
という言葉からのように思う。
いや、正確に言うと、その言葉を何度も演奏中繰り返し言っていたことからだろうか。
そしてそれはアンダーグラフに限らず、他のほとんどのアーティストにも言えることだ。
僕が純粋に楽しめたのは、Dragon Ash、chara、infinity16だけだったように思う。

ハイチ地震被災者のためのチャリティライブだから、ハイチ地震について触れることはまぁ当然といえば当然だろう。
アーティストという影響力のある立場からそういう問題に触れる、募金を集める。いいことだ。(ただなぜハイチ地震にだけ飛びついて、他のありふれた問題に触れる人がいないのか、ということについては疑問だけど)
ハイチ地震について少しでも何か感じて帰ってもらう。
でも、それと音楽とは別ではないか。
ライブという形式をとっているからには、ほとんどのお客さんは音楽を求めて集まったはずだ。
決してハイチ地震について何か知りたくて集まったわけでは、無いはず。
それなのに初めから終わりまで繰り返し繰り返し、ハイチ地震の事を、しかも同じような内容を聞かされても、僕はどうすればいいのか分からない。
音楽を純粋に楽しんじゃいけないのか?ハイチ地震を知るのはその後ではだめなのか?
でも周りのお客さんは涙など流している。僕にはもう何が何だかわからない。

音楽で考えるから、分かりにくいんだろうか。
例えばこれが「ハイチ地震チャリティお笑いライブ」なら、どうだろうか。
お客さんは、お笑いを求めるだろう、そりゃ。
それなのに出てくる芸人ごとに、ハイチ地震について語られて、なお且つ漫才にまでハイチ地震を織り込まれちゃあ、もうたまったもんではないんではないだろうか。
笑えるものも笑えない。

チャリティライブをやることには、概ね賛成だ。ただ、ハイチ地震について何か伝えるというのは、またそれは別の機会にして、純粋に募金だけという形でやったほうがいい気がする。
そして別にハイチ地震に限らなくてもいいじゃない。移植手術の費用が足りない人もいる。地震が起こらなくてもご飯が食べられなくて苦しんでいる人もいっぱいいる。なぜその人たちに対しては行動を起こさないんだ?


チャリティとは関係なく。
表現できなかった、「何か伝わってくるもの」とは何だろうか。
僕はずっと説明できないでいるけど、この感覚を割と信用している。
というか、何か説明できないけど感じるものっていうのを、僕は結構信用する。昨日の違和感含め。
でも説明できないことが、何かもどかしい。
[PR]
by santos0113 | 2010-03-15 15:15 | diary

3月13日 日記

デザインとは、ある対象と対象を関連付けること。
前に読んだパーマカルチャーの本に書いてあった言葉。
すごくすんなりと腑に落ちた。何も反論するところが無い。
対象と対象を関連付けるということは、ある対象ひとつではデザインは成り立たないということ。
そしていくつかの対象を関連付けることは、それぞれの知識が無ければ出来ない。
ある問題をランドスケープという手法で解決しようとする。
それにはある問題とランドスケープに関する知識が必要。
当たり前と言えば当たり前のことだったんだけど、それを良く理解していなかったことに気付いた。
最近は新聞を読んでいる。問題を正しく理解するために。もちろん全然分からんけどorz
ほんとうに優れた作家は、その時代があまりに欠いているものについて、それを欠いていること自体が意識されていないものについて、それが欠けていることが気がつかれていないという当の事実がその時代を決定しているようなものについて、書く。たとえば、その社会の「影」について。

前にも書いた内田樹のことば。
作家だけではない。ランドスケープデザインを手掛ける人としても、無視できない。



3月に入って、読書をしまくっている。
家でずっと読書してるせいか、同居している兄姉の目が何か冷たい!!笑
ニートやら引きこもりやら言われる。うーん否定出来ん笑。。。
僕もそれなりに考えて、信念を持って読書をしている。
信念を持つこととは、全面的に信用して、それが例えいい結果を生み出さないとしても、それに対する覚悟をしているということ。
ニートとか引きこもりと呼ぶのはいいんだけど、ただそれに対して否定をされることは、悲しい。
それが自分の大事に思っている人々なら尚更。ただ、彼らは彼らで僕の事を思って言っている、それは責めるべきではない。
と、何となく居づらくなって、リビングで読書してたけど部屋でやってます。部屋に引きこもって出てこない子供たち、それと同じ心境だったりするかも。
家族の誰か一人でいい、彼の考えていることは分からなくても、それを全面的に信用してあげることが大事だと思うんだ。(導く人はもちろん必要だと思うけれど。)
じゃないと彼は誰も、自分の事も信じらんなくなってしまう、気がする。

何か愚痴っぽい日記。
とにかく3月は読書をとことんやってみよう。レビューも書こう。
何より僕は今、知識とか世の中の見方と言った情報に、飢えている。
[PR]
by santos0113 | 2010-03-13 10:42 | diary