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日曜日の夕刊

日曜日の夕刊 (新潮文庫)

重松 清 / 新潮社


重松清の日曜日の夕刊を読み終えた。これぞ重松清ワールドでした。

重松清の書く人物は、いつも弱さのある普通の人々ですごく感情移入してしまう。
短編一番最後の卒業ホームランに小学6年生野球チームに属している息子、その監督でもあり父親でもある主人公、無気力になった娘が出てくる。

息子はまじめにこつこつと練習をし続けてきたがどうも野球に向いていないよう。5年生の中に一人混じって応援をする。
そんな息子の努力を娘は無駄だと言う。
娘「がんばってもいいことないじゃん。ね、そうでしょ?おとうさんがいちばんよくわかってるんじゃないの?」
娘「努力がだいじで結果はどうでもいいって、おとうさん、本気でそう思ってる?」

父親は娘に対していい返す言葉を見つけられなかった。

小学生最後の試合。
父親として息子を試合に出させてやりたいが、結局監督として出すことに踏み切れなかった。
結局最後まで息子に結果を残させることは出来なかった。
がんばればいいことがある、努力は必ず報われる。それを信じさせてやりたい。
でも、そのために何を語り、何をみせてやればいいのかが、わからない。

うつむく息子に野球は続けるのかと訊く。
迷うことなく続けると返す息子。
そこからのやりとり。
父「でもなあ、レギュラーは無理だと思うぞ、はっきり言って」
父「三年生になっても球拾いかもしれないぞ。そんなのでいいのか?」
息子「いいよ。だって、ぼく、野球好きだもん。」

父親の両肩から、すうっと重みが消えていった。



年を取るにつれて、何の役に立つかとか、何のために、とかそういうことを考えるようになった。
一時期スケボーをしてて、ひとり駐車場で練習していた時期があったんだけど、友人に
「何でスケボーなんてやってんの??」
って真面目な顔で聞かれて、何だかびっくりして何も言い返せなかったのを思い出した。
「面白いから」
で良かったんだけどな。
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by santos0113 | 2010-12-14 00:21 | book

クリスマスプレゼントは本。

クリスマスまであと2週間ほどです。
子供の頃はプレゼントをもらってました。1年の中ですごく楽しみな日だったはず。
プレゼントをもらうことは、相手がサンタでなくても嬉しい。

なので。

日ごろ世話になってる人にプレゼントをしよかなとか考えてます。
友達に家族に彼女に、バイトのおっちゃんにも、やるか。
男が男にクリスマスプレゼントって誤解されそうですね、まいっか。


本のプレゼントなんて、どうでしょうか。
僕は結構嬉しいけど、どうなんだろう。
あまり知らない人にはどんな本えらべばいいか分からんけど
良く見知った人だから、ニヤリとするようなセレクトをしてみたいんだ(´ー`)
社会人になって、本を買うなんてこともあんまなくなってるだろうし。


本好きなら一度はここに行ってみるべし!
SHIBUYA PUBLISHING BOOKSELLERS
本のセレクトショップです。初めて行った時3時間立ち読みしました笑
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by santos0113 | 2010-12-12 22:02 | book

おっちゃん

日曜日の夕刊 (新潮文庫)

重松 清 / 新潮社


僕がバイトしてるのはある会社の事務所なんだけど
いつもは50くらいのおっちゃんと二人で働いてます。
たまに奥さんが来ておっちゃんを手伝ってるんだけど、今日がそうだった。

この二人、あんまり仲がよろしくない(ように見える)
来るたびにケンカしておっちゃんは不機嫌になる。
今日もケンカ。おっちゃん、何だか不機嫌。
おっちゃんがイライラしてるのが分かるので声をかける。

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by santos0113 | 2010-12-09 20:41 | diary

地域の文化財

地域の文化財―21世紀の思索

九州大学出版会

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地域文化財とはその地方のその地域の町や村の生活空間を構成し、それを魅力あるもの、活力ある生き生きとしたものとするために装置されたものをさします。鎮守の森、寺院の庭、野辺の石仏など、あるいは春や秋の祭り、盆や暮れ、新年の年中行事など一切がっさい、地域文化財として注目します。

地域文化財ではない、国や地方自治体によって、価値あるものと認められ、指定された文化財を指定文化財というのに対し、注目されていないけれどその地域独自の味を出しているものを地域文化財と呼んでいる。
一般に、地域文化財は軽視され、指定文化財のみを保存すべき文化財だとみなす傾向がある。
しかし、指定文化財は指定文化財である前に地域文化財であるということを確認することが必要だとしている。
宇治の平等院は、宇治側沿いの良好な環境におかれているわけですが、もし宇治川両岸になんの規制もなく、地域開発が安易な形ですすむとしたならば、宇治の平等院とその環境はまったく損なわれてしまうと思うのです。そういう意味で指定文化財としての宇治の平等院は、また宇治にとってかけがえのない地域文化財としての価値をもう一度確認することによって、初めてその良好な環境を維持していくことが出来るのだと思うのです。


「物的経済」「局地材的経済」という言葉がある。
そして「地域文化財が、局地材の性格を持っているという。
「物的経済」は技術の進歩、労働の生産性の上昇によって、一人当たりの供給量をふやしうるような通常の財についての分野です。
「局地材的経済」は景勝地など場所的にユニークな限定性があって、同じ形では簡単に増やすことは出来ず、したがって代替物を提供することが困難な「局地財」をとりあつかう分野をいうとしています。

例えば尾瀬の湿地とか桂離宮をいう。

地域文化財は周知でもなければ、顕在化していない場合が多い。過去では、地域文化財の局地財としての性格を過去において積極的に強めようとしていた。しかし現在では、各地の地域文化財がその大きい波の中で無視されたり忘れられたりしているのではないか、あるいは潜在化させていく風潮を生んでいるのではないか。
それぞれの地域がそれぞれの地域としての特色をそなえ、地域に特色のある自然の生態だとかあるいは文化的な環境という潜在化してしまったものを、今一度、局地財としてユニークな、他の地域には見られない地域文化財として再評価するという作業をする必要があるのではないかと思います。・・・それこそがそこに住んでいる人の一つの生きがい、そこに住むことを誇りにするような重要な契機となっているのではないでしょうか。


地域文化財の性格を明らかにするために、「限定芸術」についてみていく。
限定芸術は鶴見俊輔がとなえた概念である。
それによると芸術は「純粋芸術」「大衆芸術」「限定芸術」に分けられるという。
「純粋芸術」はいわゆる「芸術」で、それぞれの専門種目の作品の系列にたいして親しみを持つ専門的享受者をもっている。
「大衆芸術」はポピュラーなアートであり、非芸術的とかんがえられている。大衆芸術を教授するのは一般の大衆である。専門の芸術家によって作られはするが、企業家と専門的芸術化との合作の形をとる。
「限定芸術」は非専門的な芸術家によって作られ非専門的な享受者によって享受される。
そして限定芸術が成長の過程で最初に享受する芸術は限定芸術であるとしている。

都市の歴史と芸術がどう関連するのか。
ラスコーの壁画のようなものをえがいた描き手は明らかに非専門的な芸術家、そしてそれを見て感動を覚えた人、共感した人もおそらく非専門的な享受者である。その意味において、芸術の資源は限定芸術であるといえる。ところが都市が生まれる段階になると、それはエジプトにしてもメソポタミアにしても中国にしても、そういう段階で生まれてくるのは、すでに専門的な芸術家であった。都市の始原と純粋芸術の始原というのはかなり結びついている。

純粋芸術というのは、いつの時代でも限定芸術によって活力を得てきたという。
まず、地域文化財としての芸術が生まれ、そだち、やがて純粋芸術を刺激しそのなかに組み込まれていくのだと思うのです。まず、地域文化財としての芸術、それは地域の人々の間から生まれ、地域の人々によって鑑賞されてきた限定芸術なのです。

純粋芸術は、かつて限定芸術であり、そこにある地域性こそが芸術を活力有らしめるものとして貴重だとしている。

そして地域文化財は限定芸術の側面を持っている。

次に町家とその町並みについてみてみましょう。それは町大工と町人たちが知恵をだしあってうみだし自分達の町のデザインをどうすべきかということをかんがえて作られたものといえましょう。その地域と深く結びついた町大工と町人たちが、知恵を出し合い協力して作ったのが町家であり町並みなのです。限定芸術の特色をそなえ、、その地域に固有な地域文化財を形作ったのです。言いかえるならば、限定芸術の側面を地域文化財は持っているのです。そして指定文化財は純粋芸術の側面の方が強いのです。そして地域文化財の限定芸術的側面が、純粋芸術を刺激し、芸術の歴史は展開してきたと言えるのではないでしょうか。都市という生活空間も、地域文化財のもつ限界芸術的性格によって活性化されてきたといえるのではないでしょうか。



次に、地域の生活空間にはたす地域文化財の役割について。
地域文化財をなぜ大切にする必要があるのか、その効用。
①地域の個性を示している
それはその地域に生きていることによって、その地域に座を占めていることによって、価値がある。
②地域の連帯感をつよめ、失われた連帯感を回復するのに役立つ
京都では伝統的な町並みのならぶ地区では、今も、昔ながらの地蔵盆がもよおされ、町の人々をいったいかさせている。
地域文化財には世代をこえた交流、過去と現在、未来をつなぐものがあった。しかし現在、私達はそれを見失っている。

従来、都市計画とか建築を専門家に委ねすぎたことに、わたしは町がおもしろくなくなった原因の一つがあるように思うし、建築家の側から言えば、その地域の個性を無視したところに、その努力と力量を十分に生かせなかった面もあると思うのです。



問題なのは新しい建築が各地の伝統的なものを根こそぎ奪い去り、単調なありふれたもので置き換えるところに現在の危機があるのではないでしょうか。








良く日本の町並みをヨーロッパと比べて汚いという。確かに綺麗だとはいえないけれど、ヨーロッパにはヨーロッパの、日本には日本の事情があり、歴史がある。模倣すればいいような問題ではない。
それに僕は日本の町並みは嫌いじゃない。同じような見かけの町は増えている。でも良く歩いて見てみれば、面白いと思える、地域文化財的な要素を感じる場所がある。
そういう場所に注目されていなかったのが今までであって、今は多少なりとも注目はされているんだろう、本も出されているぐらいだし。
専門的な人たちが一方的に作る時代は終わり、非専門的な人が参加する時代になったんだろう。
だからやるべきことは、専門的な立場からすれば非専門的な人々の先導であり、非専門的な立場からすれば、自分達で作るという意思を持つことだろうと思う。
そして具体的な町並みというのは何かの模倣ではなくて、知恵を出し合って作られたものでなくてはならない。そこから独自性が生まれる。
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by santos0113 | 2010-04-23 22:41 | book

東洋の理想

卒論はあくまでランドスケープの研究。
社会問題の研究ではない。
「何か注目されない仕事」ではなく
「何か注目されない仕事があることでランドスケープ上問題になっている事例を探す。」
いやどちらかといえば
「ランドスケープの問題を解決するために、注目されない仕事に焦点をあてる。」

不安定になっている。焦ってる。集中できない。
本の内容が全く頭に入って来ない。
昨日大学の友人と会った。ひどい態度をとった。
誤解を招かないような口が欲しい。

東洋の理想 (講談社学術文庫)

岡倉 天心 / 講談社

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岡倉天心の書いた本。
もう一度必ず読み返そう。全然頭に入らなかった。
日本はアジア文明の博物館となっている。なんとなればこの民族のふしぎな天性は、この民族をして、古いものを失うことなしに新しいものを歓迎する生ける不二元論の精神をもって。過去の諸理想のすべての面に意を留めさせているからである。

日本は古くから様々な文化を吸収して、それを自分たちなりの文化にしてきた。
受けた影響を、どんなに巨大でもこれを受容して改めて応用するための豊かな活力があった。
明治時代に大量の文化が流入しても、国民がバラバラになることがなかったのは日本の粘着性によるものだ。日本の奥底にはアジア文明が詰まっていて、そこから大きく離れることは無い。
日本人にこそ出来ることが確実にある。そして日本を正しく理解するためには、日本文化のみならず、その根底となるアジアの文化も知る必要があるだろう。
日本人であることを誇りに思いたい。僕は中高生の時日本が嫌いだったし、現代の多くの子供たちも同じじゃないだろうか。
正しく日本を知りたい。
モノの豊かさ=心の豊かさではないとだんだんみんなが分かってきている今、かならず日本の文化が見直される時が来る。気がする。
六世紀に仏教がこの国に渡来する以前、原始日本の芸術全般の上に及んだ大陸の影響の最初の波は、中国の漢および六朝のそれであった。…その芸術の概念は、大まかに孔子的(儒教的)と呼んでよいであろう。

儒教的中国がインドの理想主義を受け入れることは、もし老荘思想と道教とが、周朝の末以来、これらアジア思想の相互に対立する両極の共同の展開の為の心理的基礎を準備していなかったならば、けっして行われることのできなかったことであろう。


僕が感じることや、その行いには古くからの文化の大きな流れがある事を知らなければならない。
自分一人でどうにかなったことではなく、その根底に文化がある。
そしてその文化を知ることは、現代における日本の皆を知ろうとする姿勢ではないかと思う。



落ち着いた。
僕は間違っていない。そして友人も先生も誰も間違っていない。
理解などされなくても、僕は理解されようと、しようとする姿勢を諦めてはいけない。
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by santos0113 | 2010-03-24 18:15 | book

愛について語るときに我々の語ること

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)

レイモンド カーヴァー / 中央公論新社

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とても、哀しい、というかやりきれない思いになる本だった。
レイモンド・カーヴァ―の本を読むのは初めてだ。すごく想像力を要する。花粉症にはキツい。
僕には良く分からない。もしかしたらこれから分かるのかもしれない。分からなくてもいいような気もする。
僕は今幸せに暮らしていてこれからもそうだと信じている。
でも、何ていうか、どうしようもなく自分の力の及ばないところで、もしかして僕は一気に落ちていくのかもしれない。
物事は変わるんだ、と彼は言う。どうしてそうなるのかはわからないけれど、とにかくわけのわからないうちに、思いに反して、物事は変化するんだよ。

人間って不安定だなと何となく思う。

何も分からないけど、何か人間の本質的なところを垣間見たような、何というか。
言葉に表せない。
深く考えるのはやめよう。
ただ、そういうものがある、というのを記憶に留めておこう。
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by santos0113 | 2010-03-19 00:05 | book

自分の仕事をつくる

自分の仕事をつくる

西村 佳哲 / 晶文社

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今まで色んなことを考えて導いてきた答えがこの本に詰め込まれていた。
びっくりした。
ここに挙げられている人達が、僕は好きだ。
僕は僕が好ましいと思うものに向かって進んできたからそれは当然のことかもしれない。

「こんなものでいい」と思いながらつくられたものは、それを手にする人の存在を否定する。「こんなもんでいいや」という気持ちで作られたものは、「こんなもんで…」という感覚をジワジワジワと人々に伝えてしまう。


合理的であること、生産的であること、無駄が無く効率的に行われることをよしとする価値観の先にあるのは、極端に言えばすべてのデザインがファーストフード化した、グローバリズム的世界だ。


とくに口にしなくてもわかっている「何か」を、互いに共有しているチームは強い。…触れた時に、グッとくる、得も言われぬ何か。それを企画書に記述するのは無理だし、試みること自体ナンセンスだ。


どのような分野にも、技術進化の過程で起こる倒錯現象がある。目的と手段が入れ替わってしまう現象だ。…デザインが「人を幸せにする」という本来の目的を離れ、デザインの為のデザインという堂々巡りに陥りはじめている。


「世の中でいちばん難しいのは、問題をつくることです。
万有引力の法則におけるニュートンの林檎のように、問題の凄いところは、出来た瞬間その先に答えがある事。それをつくり出すのは、本当に難しいことです。その力が大学生にあるかと言えば、残念ながらまだでしょう。」


自分が感じた、言葉にできない魅力や違和感について「これはいったい何だろう?」と掘り下げる。きっかけはあくまで、個人的な気付きに過ぎない。
だが、そこを掘って掘って掘って、掘り下げてゆくと、深いところでほかの多くの人々の無意識と繋がる層に達する。


以前、ある講座のようなところで話す機会があった時に、自分の目的は何だろうって、あらためて考えてみたんです。すると、パンそのものが目的ではないな、という気持ちが浮かんできた。目的と言うと大げさですが、皆がこう幸せにというか、気持ちよくというか、平和的にっていうんでしょうか。そんな気持ちが伝わっていけばいいかなって思うんです。


「ダブル・バインド(二重拘束)」は、人類学者のグレゴリー・ベイトソンが提唱した理論だ。例えば母親が子供に「愛しているわ」と言う。嬉しくなった子供がそばに近づいてみると、母親の目や表情は冷たく、言葉とはまるで逆のメッセージを発していたとしよう。このような状況をダブル・バインドという。…自然や波の音、朝日を覚ます森の鳥たち、あるいは春に咲く花。そうした自然物に、人がいやされる思いを抱きやすいのは、美しいからだけではない。それらには、「嘘」やごまかしが一切含まれていないのだ。
思いっきり単純化すると、「いい仕事」とは嘘の無い仕事を指すのかもしれない。


自分がつくっているものは、自分に必要だから作るんです。この茶碗も、ただ売るためにつくり出しているのではなくて、まず自分が使いたい。あとカフェで使いたい。目的ははっきりしている。自分が欲しいものを少し多めに作って、“好きな人がいたらどうぞ”っていうスタイルです。


「その会社に幻滅したわけではないんです。ただ、すごく大きな組織で、分業が徹底していた。それぞれの仕事のレベルはものすごく高いんですけど、設計した人の思いが十分に伝わらないまま、図面だけが金型工程に流れてしまっていたり……。どうにも、ちぐはぐとした状況が、目につくようになってしまったんです。」


「デザインとは愛である。」



どれもこれも、えぇそうですわなぁわかりますわぁ~って相槌打ちながら読み進めた。
特に最後の「デザインとは愛である」って言葉なんて、え。何でおれの考えてること分かるん。と、うぬぼれでもなんでもなく感じた。
デザインに限らず、教育だって、音楽だって、科学だってそうだ。
ものごとの本質というのは愛に支えられているのが理想だと思う。
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by santos0113 | 2010-03-17 17:05 | book

茶の本

茶の本 (岩波文庫)

岡倉 覚三 / 岩波書店

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岡倉天心が1906年に出した、僅か90ページほどの薄い本。
岡倉天心、、すごい。
読み始めてわずか6ページで僕は胸に熱いものがこみ上げるのを抑えられない。
岡倉天心が述べていることは、つまりはフロムの「愛するということ」と共通する部分はないか。
お互いを完全に理解することなんて不可能だ。それでも、認め合うことはできる。お互いの短所長所を補い合うことはできる。
日本という国が積み重ねてきた文化のレベルの高さに、そしてそれが崩れている現代を思い知る。
それにしても今から100年以上も経っているというのに、内容の色あせなさに驚く。
100年の間に僕らが行ってきたことは、結局のところ何も変わりなどしなかったのだろうか。
あるいは、ますます良いとは言えない方向に向かっているのだろうか。

第一章
茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能な物を成就しようとするやさしい企てであるから。

煎ずるところ人間享楽の茶碗は、いかにも狭いものではないか、いかにも早く涙であふれるではないか、無辺を求むる渇のとまらぬあまり、一息に飲みほされるではないか。

おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見逃しがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例にすぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮人とみなしていたものである。しかるに満州の洗浄に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。…もしわれわれが文明国たる為には、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。

アジアの青年は現代的教育を受けるために、西洋の大学に群がってゆく。われわれの洞察力は、諸君の文化に深く入り込むことはできない。しかし少なくともわれわれは喜んで学ぼうとしている。

諸君はわれわれを「あまり茶気があり過ぎる」と笑うかもしれないが、われわれはまた西洋の諸君には天性「茶気がない」と思うかもしれないではないか。
東西両大陸が互いに奇警な批評を飛ばすことはやめにして、東西互いに得る利益によって、よし物がわかって来ないとしても、お互いにやわらかい気持ちになろうではないか。お互いに違った方面に向かって発展して来ているが、しかし互いに長短相補わない道理はない。諸君は心の落ち着きを失ってまで膨張発展を遂げた。われわれは侵略に対しては弱い調和を創造した。諸君は信ずることができますか、東洋はある点で西洋にまさっているということを!

現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大な努力によって全く粉砕せられている。世は利己、世俗の闇に迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利の為に行われている。東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜のごとく、人生の宝玉を得ようとすれどそのかいもない。
…まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しいとりとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。


第二章
茶室の調子を破る一点の色もなく、物のリズムをそこなうそよとの音もなく、調和を乱す一指の動きもなく、四囲の統一を破る一言も発せず、全ての行動を単純に自然に行う―こういうのがすなわち茶の湯の目的であった。そしていかにも不思議な事には、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。茶道は道教の仮りの姿であった。


第三章 道教と禅道
茶の湯は禅の儀式の発達したものであるということはすでに述べたところであるが、道教の始祖老子の名もまた茶の沿革と密接な関係がある。…道教と禅道とに対する興味は、主としていわゆる茶道として実際に現れている、人生と芸術に関するそれらの思想に存するのである。

「道」は「径路」というよりもむしろ通路にある。宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとして絶えずめぐり来る永遠の成長である。…「道」は大推移とも言うことが出来よう。主観的に言えば宇宙の気であって、その絶対は相対的なものである。

「一定」「不変」は単に成長停止を表す言葉に過ぎない。屈原いわく「聖人はよく世とともに推移す。」われらの道徳的規範は社会の過去の必要から生まれたものであるが、社会は依然として旧態にとどまるべきものであろうか。

われわれは恐ろしく自己意識が強いから不道徳を行う。おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。他人に真実を語ることを恐れているから良心をはぐくみ、おのれに真実を語るを恐れてうぬぼれを避難所にする。世の中そのものがばかばかしいのにだれがよくまじめでいられよう!といい、物々交換の精神は至る所に現れている。…男も女も何ゆえにかほど自己を公告したいのか。奴隷制度の昔に起源する一種の本能に過ぎないのではないか。

道教がアジア人の生活に対してなしたおもな貢献は美学の領域であった。…道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂き世の中にも美を見出そうと努めている。

もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば、人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。もののつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣である。われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。

芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によって分かる。何物かを表さずにおくところに、見る物はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強く引き付けてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる

禅の主張によれば、事物の大相対性からみれば大と小との区別はなく、一原子の中にも大宇宙と等しい可能性がある。極致を求めんとするものはおのれみずからの生活の中に霊光の反映を発見しなければならぬ。…茶道いっさいの理想は、人生の些事の中にでも偉大を与えるというこの禅の考えから出たものである。道教は審美的理想の基礎を与え禅はこれを実際的な物とした。


第四章 茶室
茶室はある個人的趣味に適するように建てらるべきだということは、芸術におけるもっとも重要な原理を実行することである。芸術が充分に味わわれるためにはその同時代の生活に合っていなければならぬ。それは後世の要求を無視せよというのではなくて、現在をなおいっそう楽しむことを努むべきだというのである。また過去の創作物を無視せよというのではなくて、それをわれらの自覚の中に同化せよというのである。伝統や形式に屈従することは、建築に個性の現れるのを妨げるものである。

「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均整を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。…真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。人生と芸術の力強いところはその発達の可能性に存した

第五章 芸術鑑賞
美術鑑賞に必要な同情ある心の交通は、互譲の精神によらなければならない。美術家は通信を伝える道を心得ていなければならないように、観覧車は通信を受けるに適当な態度を養わなければならない…名人にはいつでもごちそうの用意があるが、われわれはただみずから味わう力がないために飢えている。

われわれの限定せられた性質、代々相伝の本賞はもちろんのこと、慣例、因襲の力は美術観賞力の範囲を制限するものである。われらの個性さえも、ある意味においてわれわれの理解力に制限を設ける物である。そして、われらの審美的個性は、過去の創作品の中に自己の類縁を求める。もっとも、修養によって美術観賞力は増大するものであって、われわれはこれまでは認められなかった多くの美の表現を味わうことができるようになるものである。が、畢竟するところ、われわれは万有の中に自分の姿を見るにすぎないのである。すなわちわれら特有の性質がわれらの理解方式を定めるのである。


第六章 花
喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。…花無くてどうして生きていかれよう。花を奪われた世界を考えてみても恐ろしい。

悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。…花を飾るのは富を表す一時的美観の一部、すなわちその場の思いつきであるように思われる。これらの花は皆その騒ぎの済んだあとはどこへ行くのであろう。しおれた花が無情にも糞土の上に捨てられているのを見るほど、世にも哀れな物はない。

どうして花はかくも美しく生まれて、しかもかくまで薄命なのであろう。虫でも刺すことができる。最も温順な動物でも追いつめられると戦うものである。ボンネットを飾るために羽毛をねらわれている鳥はその追い手から飛び去ることができる、人が上着にしたいとむさぼる毛皮のある獣は、人が近づけば隠れることが出来る。悲しいかな!翼ある唯一の花と知られているのは蝶であって、他の花は皆、破壊者にあってはどうすることもできない。彼らが断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわれらの無情の耳へは消して達しない。

しかしあまりに感傷的になることはやめよう。奢る事をいっそういましめて、もっと壮大な気持ちになろうではないか。…われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。変化こそは唯一の永遠である。

花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚にすることができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところはただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわれは「純潔」と「清楚」に身をささげることによってその罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。…茶人たちは、花を選択することでかれらのなすべきことは終わったと考えて、その他の事は花みずからの身の上話にまかせた。

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by santos0113 | 2010-03-15 23:19 | book

独身女性の性交哲学

独身女性の性交哲学

山口 みずか / 二見書房

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多くの恋愛や結婚に関する本は、愛を称揚する一方、あまりセックスには触れていない。しかもセックスを中心に据えた本は、技術マニュアルばかりだ。だてに長年風俗嬢をやってきたわけではないので、愛とセックスについては一家言ある私。この未婚男女が大量に発生している現状を、私なりに解き明かしてみよう。

愛について、セックスという避けられがちなテーマから切り込んだ本。
「愛するということ」でも、愛という捉えどころのないものを知る上でとても参考になった。
この本は現代における、よりリアルな恋愛について語られている。読みやすい。
男が女を否定する、女が男を否定する、これは誰でも出来ることだと思う。。
著者は女だからこそ、女に対して鋭い視点で切り込んで、注意を呼び掛けている。
男に幸せを求めても、結局は幸せを決めるのは自分自身に他ならないんだぞ、と。
何だか厳しい態度に思われるのは、著者の愛だ。

●男女は同一ではない。
女子の憧れは、大好きな彼と一生ラブラブ。

恋愛ってものは、世界でたった一人の運命の恋人を探す、ロマンチックなドラマでなくちゃ!
他の誰とも違う、特別な相手として見染められてこそ意味があるのだ。誰でもいいからとりあえず、なんてもってのほか!
ええ、これは女子の身勝手な言い分。

男にとっては恋愛はそこまで優先されるものではない。
男は、誰でもいいから自分のことを好きになってほしいとは思っても、実は誰でもいいのだ。…結局、自分の欲望の為だ。彼は「彼女」というアイテムがほしいだけ。

風俗嬢は、男の本音をいやというほど知らされる。…「素人」を演じてくれる風俗嬢の方が、よっぽど男の理想に近いわけさ。

男は「誰でもいい」。ただセックスと、飯を安定的に供給してくれる人を望む。そんな男にとって、恋愛を押し付けてくることは負担でしかない。疲れてしまった男が、自分の望みをかなえてくれる、風俗嬢のもとに行くことになる。
欲望と言うと、悪いものに聞こえるが、男女ともに自然なものだ。これは肯定的に認めなければならないと、最初に言っておく。

●恋愛資本主義
恋愛を経て結婚という、今では至極当たり前に思われている制度は、歴史をたどれば目新しい話だった。

男(というか、父)が女を選ぶ時代から、女が男を狙う時代の幕開け。でも、女は露骨に自分から迫るんじゃなく、男に選ばせるように仕向けるからたちが悪い。

極上の恋愛を夢見た女たちは、男を比較して吟味する術を覚えてしまったんだ。

でも、男が女に熱心になるのは、他の男より俺様が優位だと証明すること、女がセックスに応じることが、オスとしての強さの証だからだ。…女性をゲットするためというよりも、男同士の争奪戦なのかもしれない。

男の目を意識すればするほど、類型化した可愛い子ちゃんにならざるを得ない。ファッションは他人に対する記号なのだから。…どんどん貪欲になった女は、それだけじゃ物足りない。もっともっとキレイになりたがる。…結局のところは、自己満足だ。

見合いと言う制度が普通だった時代、競争は起きなかった。
恋愛という概念が外から入ってくることで、女側の立場が逆転した。恋愛を追い求め、愛の無い結婚などあり得ないという態度になる。女は基本的に「王子様に迎えにきてもらいたい」願望なのだが、男は「誰でもいい」ので、自分が選んだ男に選んでもらう、という形になった。
男にとって、競争相手は自分のまわりの男となる。モテる男が勝ち組。モテない男は負け組。よって選ぶ女は、周りの男が可愛いと言っている女に集中する。女はそれに合わせて、似たような見た目になっていく。
男は女側の欲を満たすために、金や、女の要求する恋愛を用意する。女はそれに対してセックスという形で返す。別に高いものを食いたい訳じゃない。高いものを奢られることで自分の価値を確かめたい。
これが恋愛資本主義である。
女は商品で、その価値はいかに男に大事にされるか、金を使ってもらえるかにかかっている。それを山口さんは
お金をつかってもらえるワタシ、お金のある人から選ばれるワタシ、金に全てが集約される。
…女であるという資本を金に換えることが売春ならば、お金持ちと結婚したいのも売春と大差ない。

と言っている。

●恋愛とはそもそもなんだろう?
恋愛感情の無い結婚だったらしないほうがマシ。
それだけ恋愛至上主義思想は根深いのだ。

不倫ブームも、熟年離婚も、必然だ。
これだけ恋愛がもてはやされたら、結婚したら恋愛は終了(女だけ)なんて、やってられないだろう。

山口さんは恋愛というものを、6つの要素に分類している。
1.広義の知的関係要素(価値観が合う、一緒にいておもしろい、人間的に成長できる)
2.性的欲求合致要素(セックスの快楽が満たされる)
3.安定感満足要素(なじみがわく、孤独が回避される、安らげる、家族的きずな)
4.社会的地位達成要素(見栄えが良い、誰かに自慢できる)
5.生活便利要素(経済的なメリット)
6.激情ゲーム要素(恋愛神話を内面化する側面)
恋愛とはこれら六要素を点数化した時の総合得点が高い時に発動する男女一体化幻想のことである。人によって、この要素のどこに思い比重をかけるかは異なる。

6の「激情ゲーム要素」というのは、「運命の恋」とか、「王子様願望」だ。つまりは恋愛に抱いている、抱いていたい幻想だ。そしてこの「激情ゲーム要素」が、独立的には必ずしも恋愛独自ではない1~5を統括するのだそうだ。
例えば、「ご飯をおごってほしい(5)し、友達はみんな彼氏持ちなのにあたしだけ恋人いないとかヤバい(4)し、たまにはセックスしたい(2)し、癒されたい(3)し、彼氏と一緒にいるときは楽しい(1)し」…というように、本来5つの欲望が複合しているのが恋愛の真の姿なのだけれども、わたしたちは自分自身のエゴイスティックな欲望をきちんと直視せずに、「だって好きだから」(6)という言葉で己の欲望を正当化してしまうのだ。
自分の欲望を恋愛という言葉に隠してしまって、ちゃんと向き合っていない。
「愛のないセックスは良くない!」なんて誤魔化しだ。セックスを求めるというのは肉体的な欲望だ。
それをちゃんと認めなきゃ、と山口さんは言う。

●じゃあ、セックスって?
女はセックスを「したいかしたくないか」より「損か得か」で判断するようになった。

好きな男に迫られれば、本音は「したい」けれど、ちゃんと責任とってもらえなければ、やられ損になる。これは今でもかなりスタンダードのようだ。
セックスの目的を分類すると、生殖と快楽(趣味)に分けられる。

しかし、生殖という明確な目的のもとに性行為に及ぶ男女は少ない。
快楽のセックスは細分化できる。
①肉欲のセックス(肉体的快感を得る手段全般、自慰、売春…)
②精神的充足のセックス(自己確認、所有や束縛…)
③奉仕のセックス(売春、夫婦…)

体と心は結びついている。体が気持ちいいと「感じる」のも、精神的満足ではある。
素直に気持ちいいものは気持ちいい、でいいのに。

この3つは、男女がそれぞれ別の目的を持っていることも多い(女は愛されてる感②を求め、男は射精したいだけ①とか)し、肉体的な満足①とともに所有欲②も満たせるというふうに、重複が見られるのも常であろう。

肉体主導で、「気持ち良かったから満足するセックス」と、精神主導で「彼との一体感に満足するセックス」があるはずなのだが、両方ほしいしそれは必ず一致しているべきだとお考えの女子が多そうである。…セックス=愛という図式は、強固な感じだ。

女にとっては、セックスしてあげるんだから「責任とってね」というための確認作業になっていて、自己責任を放棄している感すらある。
セックスしたいかどうか、いちばん確実なのは、自分の気持ちだ。
でも、気持ちというか気分ってころころ変わる。セックスだって、酒の勢いでつい…ってことがあるじゃないか。そういうときに愛を言い訳にするのは、みっともないとおもう。欲望を欲望と認めることが、恥だからだろうか。

下手に愛を言い訳にすると、男が単にセックスしたくないだけなのが、「もう愛してないのね」となるし、要求を断れなくて「愛してるから我慢しなくちゃ」と、「お勤め」としてしなければいけなくなる。それもこれも、愛の名のもとに自分の性を相手に手渡しちゃったからだ。
気持ちよくなくても我慢するのは、「仕事」だからできること。
愛の無いセックスより、快楽の無いセックスに問題があるんじゃないでしょうか。

快楽はないけど、愛はある。
そして相手が求めているから仕方なく応じる。セックスをそういうものだと捉えていたら、それはキツいはずだ。…心が拒否してるのに、そこから切り離して身体だけ提供するのは、セックスというより暴力に等しい。


●恋愛と、セックスを切り離そう
ソープランドだと男性は基本的に受け身だ。
お客様はただ寝てるだけというケースも多く、最初は戸惑ったものだけど、キスしてベッドに倒れこんで愛撫するという一連の流れを、自分がリードする立場にいなってみると、男ってすごくタイヘンだってことがわかった。
女からすれば、欲望は男の方にあるから当然という前提かもしれないけど、女の子がしてほしいことと、男がしたいことにギャップがある場合、結局「あなたのセックスは自分本位」とか言われても、欲望自体は自分本位なものでしょう。
ちゃんとしたコミュニケーションとしてのセックスをしたくても、勃起と射精という目的のためには、彼本位の欲望は手放せないのでは?
そもそも、コミュニケーションとしてのセックスってなんだ?

女の側の勝手な幻想の押しつけもあるのではないか。受け身で相手を吟味しつつ、「私を快感の渦に巻き込んで~」なんて期待しすぎではないか。
女の性欲が受け身の「られたい」願望だから仕方ないのだろうか。
好きな男には征服されたい、「あなたのモノになりたい」、ふたりで一つになりたいって思うのは、女性のファンタジーだ。
それは、男の側の、女をモノにしたい、モノにした女だから好き放題に扱っていいという価値観と対を成している。自分本位のセックスをする男をなじる前に、じゃあ、自分はどうされたいのかって考えてみてもいいんじゃないか。

基本的に性欲って、肉体を使って自分の幻想を満たそうとするものだ。
どれが正しいとか、こうでなくちゃいけないという話ではない。ただ、いろいろな欲望の形があっていいんじゃないってこと。そして、女子はまず自分の主体的な欲望の在り方を、自らに問うてみてはいかがだろうか。


●男に幻想を抱かない
男は、女の人間性とかひとまず抜きにして、性的対象として女を見るために、記号を必要とする。一方で女は、男から、愛なり金なり精子なり、何がしかの満足を得るために、肉体や態度で男を誘惑しなければならない。
男から女へは無理やりセックスすることができるけど、女がその気の無い男にセックスを強要するのは不可能に近い。早い話がちんこ起たなきゃ話にならんのだ。

いくら女が「私のすべてを愛してほしい」といっても、人間的なお付き合いの中で生じる情愛と、セックスの衝動を呼び起こすための「記号」が乖離してしまえば、ちんこは萎えてしまう。それは、どちらかの責任ともいえない。

常連のお客様とのプレイの最中、彼からの他愛のない質問に普通に答えようとすると「シラけるからもうしゃべらないで」ってよく言われた。
戦闘モードを保つためのコードを外してはならないのだ。…
これは、風俗嬢相手だから特別という話ではないと思う。本質的な男の弱点ではなかろうか。

女は「この男が自分に欲情している」証として、勃起していることを求めるんだそうだ。
女は男の性規範を内面化してしまっている。
ちんこ起たないのは自分に魅力が無いからだと思ってしまう。
ちゃんとちんこ勃ててこそ一人前というのはしんどいと思う。出張ホストならば「仕事」だから、勃たなきゃ話にならないけど、夫や恋人にそれを要求するのは酷じゃないのか。
男女が対等な関係でセックスしようとすると、男は不利なんだ。


●幸せになるために
世間からの価値観は、そのままの自分でいいんだとは思わせてくれない。人の役に立つことや、男から愛されることにこそ価値があると思いこまされる。だから結婚しないことも後ろめたい。
女は、結婚して子供を産むのが一番、温かい家庭を築くのが幸せ、きめられた枠に沿って生きることが、女の幸せだという刷り込みは、洗脳に近い。けど、そこにしっくり来ないなら、いいじゃない、世間の枠からはみ出しても。

家族や恋人と束縛しあっても、本来の孤独は消えない。
一人を不安がって、自分に足りないものを他人で埋めようとするよりも、これくらいの覚悟をもつほうが、いっそ清々しいではないか。
そして、恋愛も幻想だって知った上で楽しめばいい。

自分の欲望をかなえることが一番の現代は、各々が各々の幻想に振り回されている。
けれども、みんな価値観はバラバラ。
みんな自分が一番大事。
自分を大事にしてくれる誰かに愛されたい。
その誰かだって、また同じように自分が一番大事なのだ。違う相手を受け入れる器がなくちゃ、うまくいくはずない。

人の気持ちは、がんばれば手に入るわけじゃない。
他人を自分のものにすることはできない。自分が他人のものになることもできない。彼の女になりたいって言う情熱恋愛も、結局自分を満たす手段にすぎない。人の気持ちは自分の自由にならない。
思い通りにならない人間関係の、いちばん濃密な部分が恋愛感情だ。

競争に勝てば、いい男がゲットできるかもしれない。私を幸せにしてくれる王子様はきっといる。
幻想ですよ。
もしかしたら、幻想に振り回されることこそが、人生の醍醐味なのかもしれない。

ただ、これだけは忘れちゃいけない。
自分を幸せにするのは、自分自身だ。
どうしたら幸せになれるかは、各々の心の中に問うしかない。



男と女は別の生き物だ。結局自分を幸せにするのは自分自身だ。男が幸せにしてくれる、なんてのは幻想だ。
例えお互いを理解することはできなくとも、それは理解しなくてはいけないと思う。
そこのところを理解しなければ、本当の愛というものは見えないのではないかと思う。
自分の欲を捨てる必要はない。ただ、その欲を隠して他人に依存することは甘えでしかない。
まずは、自分の欲と向き合うべきじゃないだろうか。無意識的なものも合わせて。
それは女だけではない、男も同じことだ。というより男女の関係だけではない、全てにおいて。
その欲とどう付き合っていくのかが大事だと思う。
重要なのは知ることだ。
知っててもなお、欲を突き出してくるのは

嫌いじゃないな。笑
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by santos0113 | 2010-03-13 23:45 | book

村上春樹にご用心

村上春樹にご用心

内田 樹 / アルテスパブリッシング

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村上春樹の文章が好きだ。
登場人物に人間味がない、それなのに何か引き込まれてしまう、何か共感できる気がする、良く分からないけど好きだ。
そして僕は内田樹も好きだ。
なんと内田樹も村上春樹が好きだ。
そんな内田樹が村上春樹に関して書いた本。読むっきゃない。

この本は内田樹がいろんなところで書いた、村上春樹関係の文章総集編だ。
だけど村上春樹の作品の解読、意外な冬ソナと村上春樹の関係性、そして村上春樹は何を見ているのか…内田樹の目を通した村上春樹像が良く分かる。
村上春樹はデビュー当時の批評家たちの想像の射程を超えた「世界文学」をその処女作のときからめざしていた。

どうして村上春樹はこれほど世界的な支持を獲得しえたのか??
それは彼の小説に「激しく欠けていた」ものが単に80~90年代の日本というローカルな場に固有の欠如だったのではなく、はるかに広汎な私たちの生きている世界全体に欠けているものだったからである。

内田樹は言う。
ほんとうに優れた作家は、その時代があまりに欠いているものについて、それを欠いていること自体が意識されていないものについて、それが欠けていることが気がつかれていないという当の事実がその時代を決定しているようなものについて、書く。たとえば、その社会の「影」について。



僕は難しいことは良く分からないけれど、内田樹という人は分かりやすく、この世界に対しての見方という点でいつも新しい刺激を与えてくれるような気がする。あくまでそれが絶対だと言ってる訳じゃないんだよ、という立場で。

最後に僕的にタイムリーで、おおぉっと思った文章。
世の中には、「誰かがやらなくてはならないのなら、私がやる」というふうに考える人と、「誰かがやらなくてはならないんだから、誰かがやるだろう」というふうに考える人の二種類がいる。「キャッチャー」(野球のではない。村上春樹の文章に出てくる言葉。)は第一の種類の人間が引き受ける仕事である。ときどき「あ、オレがやります」と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれる。
そういう人が必ずいたので、人間世界の秩序はこれまでも保たれてきたし、これからもそういう人は必ずいるだろうから、人間世界の秩序は引き続き保たれるはずである。
でも自分の努力にはつねに正当な評価や代償や栄誉が与えられるべきだと思っている人間には「キャッチャー」(野球のではry)や「センチネル」(略。)の仕事には向かない。適性を論じる以前に、彼らは世の中には「そんな仕事」が存在するということさえ想像できないからである。


良く言われる夢を追う姿勢、決して悪いことじゃない。
一般的に言えば、いいことだ。
けど、こんなささやかな仕事のおかげで今の世界は回ってるってのも、知っておくべきだと思う。
その仕事をしろ!と言いたい訳じゃない。ただ、そういう仕事をしている人がいる、ということは忘れてはならないと、そう感じる。
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by santos0113 | 2010-03-12 22:33 | book