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愛について語るときに我々の語ること

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)

レイモンド カーヴァー / 中央公論新社

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とても、哀しい、というかやりきれない思いになる本だった。
レイモンド・カーヴァ―の本を読むのは初めてだ。すごく想像力を要する。花粉症にはキツい。
僕には良く分からない。もしかしたらこれから分かるのかもしれない。分からなくてもいいような気もする。
僕は今幸せに暮らしていてこれからもそうだと信じている。
でも、何ていうか、どうしようもなく自分の力の及ばないところで、もしかして僕は一気に落ちていくのかもしれない。
物事は変わるんだ、と彼は言う。どうしてそうなるのかはわからないけれど、とにかくわけのわからないうちに、思いに反して、物事は変化するんだよ。

人間って不安定だなと何となく思う。

何も分からないけど、何か人間の本質的なところを垣間見たような、何というか。
言葉に表せない。
深く考えるのはやめよう。
ただ、そういうものがある、というのを記憶に留めておこう。
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by santos0113 | 2010-03-19 00:05 | book

独身女性の性交哲学

独身女性の性交哲学

山口 みずか / 二見書房

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多くの恋愛や結婚に関する本は、愛を称揚する一方、あまりセックスには触れていない。しかもセックスを中心に据えた本は、技術マニュアルばかりだ。だてに長年風俗嬢をやってきたわけではないので、愛とセックスについては一家言ある私。この未婚男女が大量に発生している現状を、私なりに解き明かしてみよう。

愛について、セックスという避けられがちなテーマから切り込んだ本。
「愛するということ」でも、愛という捉えどころのないものを知る上でとても参考になった。
この本は現代における、よりリアルな恋愛について語られている。読みやすい。
男が女を否定する、女が男を否定する、これは誰でも出来ることだと思う。。
著者は女だからこそ、女に対して鋭い視点で切り込んで、注意を呼び掛けている。
男に幸せを求めても、結局は幸せを決めるのは自分自身に他ならないんだぞ、と。
何だか厳しい態度に思われるのは、著者の愛だ。

●男女は同一ではない。
女子の憧れは、大好きな彼と一生ラブラブ。

恋愛ってものは、世界でたった一人の運命の恋人を探す、ロマンチックなドラマでなくちゃ!
他の誰とも違う、特別な相手として見染められてこそ意味があるのだ。誰でもいいからとりあえず、なんてもってのほか!
ええ、これは女子の身勝手な言い分。

男にとっては恋愛はそこまで優先されるものではない。
男は、誰でもいいから自分のことを好きになってほしいとは思っても、実は誰でもいいのだ。…結局、自分の欲望の為だ。彼は「彼女」というアイテムがほしいだけ。

風俗嬢は、男の本音をいやというほど知らされる。…「素人」を演じてくれる風俗嬢の方が、よっぽど男の理想に近いわけさ。

男は「誰でもいい」。ただセックスと、飯を安定的に供給してくれる人を望む。そんな男にとって、恋愛を押し付けてくることは負担でしかない。疲れてしまった男が、自分の望みをかなえてくれる、風俗嬢のもとに行くことになる。
欲望と言うと、悪いものに聞こえるが、男女ともに自然なものだ。これは肯定的に認めなければならないと、最初に言っておく。

●恋愛資本主義
恋愛を経て結婚という、今では至極当たり前に思われている制度は、歴史をたどれば目新しい話だった。

男(というか、父)が女を選ぶ時代から、女が男を狙う時代の幕開け。でも、女は露骨に自分から迫るんじゃなく、男に選ばせるように仕向けるからたちが悪い。

極上の恋愛を夢見た女たちは、男を比較して吟味する術を覚えてしまったんだ。

でも、男が女に熱心になるのは、他の男より俺様が優位だと証明すること、女がセックスに応じることが、オスとしての強さの証だからだ。…女性をゲットするためというよりも、男同士の争奪戦なのかもしれない。

男の目を意識すればするほど、類型化した可愛い子ちゃんにならざるを得ない。ファッションは他人に対する記号なのだから。…どんどん貪欲になった女は、それだけじゃ物足りない。もっともっとキレイになりたがる。…結局のところは、自己満足だ。

見合いと言う制度が普通だった時代、競争は起きなかった。
恋愛という概念が外から入ってくることで、女側の立場が逆転した。恋愛を追い求め、愛の無い結婚などあり得ないという態度になる。女は基本的に「王子様に迎えにきてもらいたい」願望なのだが、男は「誰でもいい」ので、自分が選んだ男に選んでもらう、という形になった。
男にとって、競争相手は自分のまわりの男となる。モテる男が勝ち組。モテない男は負け組。よって選ぶ女は、周りの男が可愛いと言っている女に集中する。女はそれに合わせて、似たような見た目になっていく。
男は女側の欲を満たすために、金や、女の要求する恋愛を用意する。女はそれに対してセックスという形で返す。別に高いものを食いたい訳じゃない。高いものを奢られることで自分の価値を確かめたい。
これが恋愛資本主義である。
女は商品で、その価値はいかに男に大事にされるか、金を使ってもらえるかにかかっている。それを山口さんは
お金をつかってもらえるワタシ、お金のある人から選ばれるワタシ、金に全てが集約される。
…女であるという資本を金に換えることが売春ならば、お金持ちと結婚したいのも売春と大差ない。

と言っている。

●恋愛とはそもそもなんだろう?
恋愛感情の無い結婚だったらしないほうがマシ。
それだけ恋愛至上主義思想は根深いのだ。

不倫ブームも、熟年離婚も、必然だ。
これだけ恋愛がもてはやされたら、結婚したら恋愛は終了(女だけ)なんて、やってられないだろう。

山口さんは恋愛というものを、6つの要素に分類している。
1.広義の知的関係要素(価値観が合う、一緒にいておもしろい、人間的に成長できる)
2.性的欲求合致要素(セックスの快楽が満たされる)
3.安定感満足要素(なじみがわく、孤独が回避される、安らげる、家族的きずな)
4.社会的地位達成要素(見栄えが良い、誰かに自慢できる)
5.生活便利要素(経済的なメリット)
6.激情ゲーム要素(恋愛神話を内面化する側面)
恋愛とはこれら六要素を点数化した時の総合得点が高い時に発動する男女一体化幻想のことである。人によって、この要素のどこに思い比重をかけるかは異なる。

6の「激情ゲーム要素」というのは、「運命の恋」とか、「王子様願望」だ。つまりは恋愛に抱いている、抱いていたい幻想だ。そしてこの「激情ゲーム要素」が、独立的には必ずしも恋愛独自ではない1~5を統括するのだそうだ。
例えば、「ご飯をおごってほしい(5)し、友達はみんな彼氏持ちなのにあたしだけ恋人いないとかヤバい(4)し、たまにはセックスしたい(2)し、癒されたい(3)し、彼氏と一緒にいるときは楽しい(1)し」…というように、本来5つの欲望が複合しているのが恋愛の真の姿なのだけれども、わたしたちは自分自身のエゴイスティックな欲望をきちんと直視せずに、「だって好きだから」(6)という言葉で己の欲望を正当化してしまうのだ。
自分の欲望を恋愛という言葉に隠してしまって、ちゃんと向き合っていない。
「愛のないセックスは良くない!」なんて誤魔化しだ。セックスを求めるというのは肉体的な欲望だ。
それをちゃんと認めなきゃ、と山口さんは言う。

●じゃあ、セックスって?
女はセックスを「したいかしたくないか」より「損か得か」で判断するようになった。

好きな男に迫られれば、本音は「したい」けれど、ちゃんと責任とってもらえなければ、やられ損になる。これは今でもかなりスタンダードのようだ。
セックスの目的を分類すると、生殖と快楽(趣味)に分けられる。

しかし、生殖という明確な目的のもとに性行為に及ぶ男女は少ない。
快楽のセックスは細分化できる。
①肉欲のセックス(肉体的快感を得る手段全般、自慰、売春…)
②精神的充足のセックス(自己確認、所有や束縛…)
③奉仕のセックス(売春、夫婦…)

体と心は結びついている。体が気持ちいいと「感じる」のも、精神的満足ではある。
素直に気持ちいいものは気持ちいい、でいいのに。

この3つは、男女がそれぞれ別の目的を持っていることも多い(女は愛されてる感②を求め、男は射精したいだけ①とか)し、肉体的な満足①とともに所有欲②も満たせるというふうに、重複が見られるのも常であろう。

肉体主導で、「気持ち良かったから満足するセックス」と、精神主導で「彼との一体感に満足するセックス」があるはずなのだが、両方ほしいしそれは必ず一致しているべきだとお考えの女子が多そうである。…セックス=愛という図式は、強固な感じだ。

女にとっては、セックスしてあげるんだから「責任とってね」というための確認作業になっていて、自己責任を放棄している感すらある。
セックスしたいかどうか、いちばん確実なのは、自分の気持ちだ。
でも、気持ちというか気分ってころころ変わる。セックスだって、酒の勢いでつい…ってことがあるじゃないか。そういうときに愛を言い訳にするのは、みっともないとおもう。欲望を欲望と認めることが、恥だからだろうか。

下手に愛を言い訳にすると、男が単にセックスしたくないだけなのが、「もう愛してないのね」となるし、要求を断れなくて「愛してるから我慢しなくちゃ」と、「お勤め」としてしなければいけなくなる。それもこれも、愛の名のもとに自分の性を相手に手渡しちゃったからだ。
気持ちよくなくても我慢するのは、「仕事」だからできること。
愛の無いセックスより、快楽の無いセックスに問題があるんじゃないでしょうか。

快楽はないけど、愛はある。
そして相手が求めているから仕方なく応じる。セックスをそういうものだと捉えていたら、それはキツいはずだ。…心が拒否してるのに、そこから切り離して身体だけ提供するのは、セックスというより暴力に等しい。


●恋愛と、セックスを切り離そう
ソープランドだと男性は基本的に受け身だ。
お客様はただ寝てるだけというケースも多く、最初は戸惑ったものだけど、キスしてベッドに倒れこんで愛撫するという一連の流れを、自分がリードする立場にいなってみると、男ってすごくタイヘンだってことがわかった。
女からすれば、欲望は男の方にあるから当然という前提かもしれないけど、女の子がしてほしいことと、男がしたいことにギャップがある場合、結局「あなたのセックスは自分本位」とか言われても、欲望自体は自分本位なものでしょう。
ちゃんとしたコミュニケーションとしてのセックスをしたくても、勃起と射精という目的のためには、彼本位の欲望は手放せないのでは?
そもそも、コミュニケーションとしてのセックスってなんだ?

女の側の勝手な幻想の押しつけもあるのではないか。受け身で相手を吟味しつつ、「私を快感の渦に巻き込んで~」なんて期待しすぎではないか。
女の性欲が受け身の「られたい」願望だから仕方ないのだろうか。
好きな男には征服されたい、「あなたのモノになりたい」、ふたりで一つになりたいって思うのは、女性のファンタジーだ。
それは、男の側の、女をモノにしたい、モノにした女だから好き放題に扱っていいという価値観と対を成している。自分本位のセックスをする男をなじる前に、じゃあ、自分はどうされたいのかって考えてみてもいいんじゃないか。

基本的に性欲って、肉体を使って自分の幻想を満たそうとするものだ。
どれが正しいとか、こうでなくちゃいけないという話ではない。ただ、いろいろな欲望の形があっていいんじゃないってこと。そして、女子はまず自分の主体的な欲望の在り方を、自らに問うてみてはいかがだろうか。


●男に幻想を抱かない
男は、女の人間性とかひとまず抜きにして、性的対象として女を見るために、記号を必要とする。一方で女は、男から、愛なり金なり精子なり、何がしかの満足を得るために、肉体や態度で男を誘惑しなければならない。
男から女へは無理やりセックスすることができるけど、女がその気の無い男にセックスを強要するのは不可能に近い。早い話がちんこ起たなきゃ話にならんのだ。

いくら女が「私のすべてを愛してほしい」といっても、人間的なお付き合いの中で生じる情愛と、セックスの衝動を呼び起こすための「記号」が乖離してしまえば、ちんこは萎えてしまう。それは、どちらかの責任ともいえない。

常連のお客様とのプレイの最中、彼からの他愛のない質問に普通に答えようとすると「シラけるからもうしゃべらないで」ってよく言われた。
戦闘モードを保つためのコードを外してはならないのだ。…
これは、風俗嬢相手だから特別という話ではないと思う。本質的な男の弱点ではなかろうか。

女は「この男が自分に欲情している」証として、勃起していることを求めるんだそうだ。
女は男の性規範を内面化してしまっている。
ちんこ起たないのは自分に魅力が無いからだと思ってしまう。
ちゃんとちんこ勃ててこそ一人前というのはしんどいと思う。出張ホストならば「仕事」だから、勃たなきゃ話にならないけど、夫や恋人にそれを要求するのは酷じゃないのか。
男女が対等な関係でセックスしようとすると、男は不利なんだ。


●幸せになるために
世間からの価値観は、そのままの自分でいいんだとは思わせてくれない。人の役に立つことや、男から愛されることにこそ価値があると思いこまされる。だから結婚しないことも後ろめたい。
女は、結婚して子供を産むのが一番、温かい家庭を築くのが幸せ、きめられた枠に沿って生きることが、女の幸せだという刷り込みは、洗脳に近い。けど、そこにしっくり来ないなら、いいじゃない、世間の枠からはみ出しても。

家族や恋人と束縛しあっても、本来の孤独は消えない。
一人を不安がって、自分に足りないものを他人で埋めようとするよりも、これくらいの覚悟をもつほうが、いっそ清々しいではないか。
そして、恋愛も幻想だって知った上で楽しめばいい。

自分の欲望をかなえることが一番の現代は、各々が各々の幻想に振り回されている。
けれども、みんな価値観はバラバラ。
みんな自分が一番大事。
自分を大事にしてくれる誰かに愛されたい。
その誰かだって、また同じように自分が一番大事なのだ。違う相手を受け入れる器がなくちゃ、うまくいくはずない。

人の気持ちは、がんばれば手に入るわけじゃない。
他人を自分のものにすることはできない。自分が他人のものになることもできない。彼の女になりたいって言う情熱恋愛も、結局自分を満たす手段にすぎない。人の気持ちは自分の自由にならない。
思い通りにならない人間関係の、いちばん濃密な部分が恋愛感情だ。

競争に勝てば、いい男がゲットできるかもしれない。私を幸せにしてくれる王子様はきっといる。
幻想ですよ。
もしかしたら、幻想に振り回されることこそが、人生の醍醐味なのかもしれない。

ただ、これだけは忘れちゃいけない。
自分を幸せにするのは、自分自身だ。
どうしたら幸せになれるかは、各々の心の中に問うしかない。



男と女は別の生き物だ。結局自分を幸せにするのは自分自身だ。男が幸せにしてくれる、なんてのは幻想だ。
例えお互いを理解することはできなくとも、それは理解しなくてはいけないと思う。
そこのところを理解しなければ、本当の愛というものは見えないのではないかと思う。
自分の欲を捨てる必要はない。ただ、その欲を隠して他人に依存することは甘えでしかない。
まずは、自分の欲と向き合うべきじゃないだろうか。無意識的なものも合わせて。
それは女だけではない、男も同じことだ。というより男女の関係だけではない、全てにおいて。
その欲とどう付き合っていくのかが大事だと思う。
重要なのは知ることだ。
知っててもなお、欲を突き出してくるのは

嫌いじゃないな。笑
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by santos0113 | 2010-03-13 23:45 | book

愛するということ

愛するということ

Erich Fromm / 紀伊國屋書店

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この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提の上に立っている。

愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。

愛に学ぶことなんてないという態度は、いくつかの前提の上に立っている。
①たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。
②愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思い込みである。愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手を見つけることは難しいと考えている。
③恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。

①―「愛されキャラ」「モテ子になりたい」なんて言葉を良く耳にすることを考えれば、納得できる。
②―「恋愛はしたいけど、いい人いないなぁー」といった感じ?現代社会の発展と関連したいくつかの理由がある。
・以前は、愛は結婚へと至ることもありうる自発的な個人体験ではなかった。結婚は社会的な配慮に基づいて取り決められるものであり、結婚した後ではじめて愛が生まれるのだと考えられていた。ところがここ数世代の間に、ほとんどの人が「ロマンティック・ラブ」すなわち結婚に結びつくような個人的体験としての愛を追い求めている。自由な愛という概念によって対象の重要性が大きくなった。
・現代人の楽しみとは、わくわくしながらショーウィンドウをながめたり、現金であれ月賦であれ、買えるだけのものは何でも買うことである。誰もがそれと同じような眼で人間を見ている。何が人を魅力的にするかは、肉体的にも精神的にも、その時代の流行に左右される。人間の愛情関係が、商品や労働市場を支配しているのと同じ交換のパターンに従っている。
③―たがいを隔てていた壁を取り払い、親しみを感じ、一体感を覚える瞬間は、胸のときめく瞬間だ。しかしやがて反感、失望、倦怠が最初の興奮の名残を消し去ってしまう。互いに夢中になった状態、頭に血が上った状態を、愛の強さの証拠だと思い込む。

フロムは、愛は技術であり、それを習得するためには努力が必要としている。その過程として、
・理論に精通すること
・習練に励むこと
・技術を習得することが自分にとって究極の関心ごとにならなければならない
としている。

愛の理論について。
人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ。人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人々と何らかの形で接触しない限り、人は発狂してしまうだろう。

孤立しているという意識から不安が生まれる。そればかりでなく、孤立は恥と罪悪感を生む。…人間の最も強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。

その欲求に対して
どのような答えを出すかは、ある程度、その人間がどれくらい個人として独立しているかによる。幼児はまだ母親との一体感をもっているので、母親がそばにいる限り、孤立感を覚えることはない。ところが、孤立感や個人としての意識が大きくなるにつれて、別の方法で孤立感を克服したいという欲求が生まれる。

そしてその孤立感を克服するために人間がとる方法としていくつか挙げられている。
①興奮状態による合一
②集団、慣習、慣例、信仰への同調にもとづいた合一
③創造的活動

順に説明すると、
①はいわばお祭りの乱痴気騒ぎのようなもの。集団的な興奮状態を経験した後、しばらくは孤立感にそれほど苦しまずにすむ。しかし、そうした共同の行事を捨ててしまった社会に生きる個人は、アルコールや麻薬といった方向に進む。興奮状態が過ぎると一層孤立感が深まり、ますますアルコールなどの助けを借りる羽目になる。
セックスによる興奮状態の助けを借りるという解決法はそれとはすこしちがう。性的な交わりは、ある程度、孤立感を克服する自然で正常な方法である。しかし、他の方法で孤立感をいやすことのできない人々の場合、これは絶望的な試みであり、結局は孤立感を深めてしまう。
②は、現代社会でもっとも一般的な方法である。集団に同調することによって、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になる。これにより孤独という恐ろしい経験から救われる。いかにして合一感を得るかという問いには、どうしてもなんらかの答えが必要なのであり、他に良い方法がないなると、集団への同調による合一が一番良いということになる。たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求に気付いてすらいない。
平等という言葉がある。搾取の廃止、すなわち利用の仕方が残虐であれ「人道的」であれ、人間が人間を利用することの廃絶、これが平等の定義である。現代の資本主義社会では、平等の意味は変わってきている。今日、平等といえば、それはロボットの、すなわち個性を失った平等である。現代では平等は「一体」ではなく「同一」を意味する。
③には、芸術的な物もあれば、職人的なものもある。どんな種類の創造的活動の場合も、創造する人間は素材と一体化する。ただし、このことがあてはまるのは、生産的な仕事、すなわち私が計画し、生産し、自分の眼で仕事の結果をみるような仕事のみである。

生産的活動で得られる一体感は、人間同士の一体感ではない。祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感にすぎない。ではどうすればいいのか。
そこで出てくる完全な答えが、人間同士の一体化、他者との融合、すなわち愛にある


大事なのは、「愛」と言ったとき、どういった種類の結合の事を言っているのかを、私たちが了解していることだ。

結論から言うと、
成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、しかも二人であり続けるという、パラドックスが起きる。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛の能動的な性格を、分かりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、ということができよう。

愛は与えること、では何を、どうやってあたえればいいのか??
自分自身を、自分のいちばん大切な物を、自分の生命を、与えるのだ。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

自分の生命を与えることで、他人を豊かにすること。それだけではない。
与えるということは、他人をも与える者にするということであり、たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かち合うのである。

愛に限っていえば、こういうことになる。
愛とは、愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことが出来ないということである。


与えるという意味で、その人を愛することができるかどうかは、その人の性格がどの程度発達しているかということによる。
愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない。

生産的な段階とはすなわち、自分の外にある目的のためにエネルギーを注ぐということであり、また自分に本来備わっている力を用いるということである。与えるという行為は自分のもてる力のもっとも高度な表現である。

また、愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。配慮、責任、尊敬、知である。
愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。愛の本質は、「何かを育てる」ことにある。
責任は、母子の関係についていえば、生理的欲求に対する配慮を意味する。おとなどうしの愛の場合は、相手の精神的な求めに応じることである。責任とは、他の人間が何かを求めてきたときの、私の対応である。
責任は、尊敬が欠けていると、容易に支配や所有へと堕落してしまう。そして人を尊敬するには、そのひとのことを知らなければならない。他者と生産的に融合したとき、私はあなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る。


生産的に愛するには、信じること(信念)が必要だ。自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができると「信じる」こと。そして、たとえば母親が子供の成長を信じるように、他人の可能性を「信じる」こと。その信念があるかないかが「洗脳」と「教育」のちがいだ。洗脳を行う者は、他人の生命力と可能性を信じていない。一方、教育とは、他者が可能性を実現してゆくのを助けることだ。そして信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望さえも受け入れる覚悟である。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない



僕はロボットのような世界を、蔑んでいるのだろうと思う。
そして世界を知りもしないで決めつける自分を、世界を愛することのできない自分を、蔑んでいると思う。
愛を阻んでいるのは、自分のなかの偏見や思い込みではないか。
偏見や思い込みが生まれるのは、良く知らないからではないか。
僕が今必要としているのは、自分を、世界を知ることではないか。
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by santos0113 | 2010-03-10 17:22 | book

早稲田祭

今日は早稲田の学祭に行ってきました。
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女子高生、じいちゃんばあちゃん、コスプレしてる人、おたくっぽい人…色んな人がいます。
何だか不思議。
色んな年代、色んな目的が交錯してるわけで、エネルギーにあふれている気がします。
夜のクラブのあのカオスな雰囲気に若干通じるものがあるのかもしれない。



学祭となれば、やっぱりナンパ目的で集まる人は数多くいるわけで。
その「ナンパ」という行為について自分的にすごく共感できる記事がありました。
「ナンパ」の因数分解


ナンパって言う響きがいかんよね。性を連想してしまう。
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by santos0113 | 2009-11-08 00:16 | diary