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目からウロコの幸福学

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目からウロコの幸福学

ダニエル・ネトル / オープンナレッジ

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この本を読んで心が軽くなった。重荷を外された気分。
僕は幸福になる必要はない…というより、幸福を追求し続ける必要はないんだ。
自由だと感じる。それでいて地に足が付いている。
自分が見つけられなくて苦しんでいた部分を、しっかりとはめ込んでくれた感じ。
僕は幸福になるための道を常に探していて、それをしない人を内心馬鹿にしていたんだろう。
僕が人を見るときの基準というのは常にその一点だった。
「幸福」という計りようのないものを、どうにか探ろうとして、それを見いだせないまま誰かを自分より下だ上だとみなす、その矛盾に苦しんでいたように思う。その根底には自分こそが正しい、正しいはずだ、という思い込みがあったかもしれない。
この本は完璧な幸福なんてものはないんだ、それでも努力する意味はあるかもね、と教えてくれる。科学的に。
「人は幸せになるために生きるのではない。生きるために幸せを求める。」



・幸せになるために、人々は努力する。しかし持続する「幸せ」という感覚が手に入ることはなく、さらに努力する。

・わたしたちはおなじ環境下に生きる他者と比較して自分が「幸せ」かどうかを判断する存在だ。しかし現代では通信手段がグローバル化したせいで、自分以上にうまくやっている人が必ずどこかにいる。

・実際には昇進したり大金を手にしてもそれほど幸せになれるわけではないけれど、でもわたしたちは「頑張らなきゃ」とつねに感じてしまう。


上のような矛盾に対して、ダニエル・ネトルは科学的にとても丁寧に検証している。そしてある答えを導く。
これらの行動は、僕らの祖先から進化的にプログラムされているということ!
つまり、はるか昔は現代と異なり、一つの間違いで強者に殺されてしまうような時代だ。その中で人間は柔軟に対応し、生き残るために努力し続けなければならなかった。そうして生まれたのが「幸福」という概念であり、努力し続けるために、幸福というつかみどころのないものを追い求める。けれども決して永遠の幸福をつかむことはできない。永遠の幸福をつかむとき、それは生き残るための努力をやめてしまうときだから。


幸福を追い求める中で上のような矛盾には気付いてた。多分。
そこに幸福が無いってことに気付いていて、違う道を行こうとして、それをしない人を蔑んでいた。
けど結局それも正しくない。決して間違っているわけではないかもしれないけど、正しいわけでもない。
というか正しいものなんて無い。いや、というよりは全てが正しい笑
けど、そういうことに今の若い世代の人は気付いてきてる気もする。

全てを、自分以外を、自分を認めようと思える。
人と比較して、長い間苦しんでいた。自分より上がいることに、下がいることに、そんな見方をしてしまうことに。
みんな似たようなもんかな、と思える。
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by santos0113 | 2010-03-12 13:38 | book

愛するということ

愛するということ

Erich Fromm / 紀伊國屋書店

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この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提の上に立っている。

愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。

愛に学ぶことなんてないという態度は、いくつかの前提の上に立っている。
①たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。
②愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思い込みである。愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手を見つけることは難しいと考えている。
③恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。

①―「愛されキャラ」「モテ子になりたい」なんて言葉を良く耳にすることを考えれば、納得できる。
②―「恋愛はしたいけど、いい人いないなぁー」といった感じ?現代社会の発展と関連したいくつかの理由がある。
・以前は、愛は結婚へと至ることもありうる自発的な個人体験ではなかった。結婚は社会的な配慮に基づいて取り決められるものであり、結婚した後ではじめて愛が生まれるのだと考えられていた。ところがここ数世代の間に、ほとんどの人が「ロマンティック・ラブ」すなわち結婚に結びつくような個人的体験としての愛を追い求めている。自由な愛という概念によって対象の重要性が大きくなった。
・現代人の楽しみとは、わくわくしながらショーウィンドウをながめたり、現金であれ月賦であれ、買えるだけのものは何でも買うことである。誰もがそれと同じような眼で人間を見ている。何が人を魅力的にするかは、肉体的にも精神的にも、その時代の流行に左右される。人間の愛情関係が、商品や労働市場を支配しているのと同じ交換のパターンに従っている。
③―たがいを隔てていた壁を取り払い、親しみを感じ、一体感を覚える瞬間は、胸のときめく瞬間だ。しかしやがて反感、失望、倦怠が最初の興奮の名残を消し去ってしまう。互いに夢中になった状態、頭に血が上った状態を、愛の強さの証拠だと思い込む。

フロムは、愛は技術であり、それを習得するためには努力が必要としている。その過程として、
・理論に精通すること
・習練に励むこと
・技術を習得することが自分にとって究極の関心ごとにならなければならない
としている。

愛の理論について。
人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ。人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人々と何らかの形で接触しない限り、人は発狂してしまうだろう。

孤立しているという意識から不安が生まれる。そればかりでなく、孤立は恥と罪悪感を生む。…人間の最も強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。

その欲求に対して
どのような答えを出すかは、ある程度、その人間がどれくらい個人として独立しているかによる。幼児はまだ母親との一体感をもっているので、母親がそばにいる限り、孤立感を覚えることはない。ところが、孤立感や個人としての意識が大きくなるにつれて、別の方法で孤立感を克服したいという欲求が生まれる。

そしてその孤立感を克服するために人間がとる方法としていくつか挙げられている。
①興奮状態による合一
②集団、慣習、慣例、信仰への同調にもとづいた合一
③創造的活動

順に説明すると、
①はいわばお祭りの乱痴気騒ぎのようなもの。集団的な興奮状態を経験した後、しばらくは孤立感にそれほど苦しまずにすむ。しかし、そうした共同の行事を捨ててしまった社会に生きる個人は、アルコールや麻薬といった方向に進む。興奮状態が過ぎると一層孤立感が深まり、ますますアルコールなどの助けを借りる羽目になる。
セックスによる興奮状態の助けを借りるという解決法はそれとはすこしちがう。性的な交わりは、ある程度、孤立感を克服する自然で正常な方法である。しかし、他の方法で孤立感をいやすことのできない人々の場合、これは絶望的な試みであり、結局は孤立感を深めてしまう。
②は、現代社会でもっとも一般的な方法である。集団に同調することによって、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になる。これにより孤独という恐ろしい経験から救われる。いかにして合一感を得るかという問いには、どうしてもなんらかの答えが必要なのであり、他に良い方法がないなると、集団への同調による合一が一番良いということになる。たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求に気付いてすらいない。
平等という言葉がある。搾取の廃止、すなわち利用の仕方が残虐であれ「人道的」であれ、人間が人間を利用することの廃絶、これが平等の定義である。現代の資本主義社会では、平等の意味は変わってきている。今日、平等といえば、それはロボットの、すなわち個性を失った平等である。現代では平等は「一体」ではなく「同一」を意味する。
③には、芸術的な物もあれば、職人的なものもある。どんな種類の創造的活動の場合も、創造する人間は素材と一体化する。ただし、このことがあてはまるのは、生産的な仕事、すなわち私が計画し、生産し、自分の眼で仕事の結果をみるような仕事のみである。

生産的活動で得られる一体感は、人間同士の一体感ではない。祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感にすぎない。ではどうすればいいのか。
そこで出てくる完全な答えが、人間同士の一体化、他者との融合、すなわち愛にある


大事なのは、「愛」と言ったとき、どういった種類の結合の事を言っているのかを、私たちが了解していることだ。

結論から言うと、
成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、しかも二人であり続けるという、パラドックスが起きる。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛の能動的な性格を、分かりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、ということができよう。

愛は与えること、では何を、どうやってあたえればいいのか??
自分自身を、自分のいちばん大切な物を、自分の生命を、与えるのだ。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

自分の生命を与えることで、他人を豊かにすること。それだけではない。
与えるということは、他人をも与える者にするということであり、たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かち合うのである。

愛に限っていえば、こういうことになる。
愛とは、愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことが出来ないということである。


与えるという意味で、その人を愛することができるかどうかは、その人の性格がどの程度発達しているかということによる。
愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない。

生産的な段階とはすなわち、自分の外にある目的のためにエネルギーを注ぐということであり、また自分に本来備わっている力を用いるということである。与えるという行為は自分のもてる力のもっとも高度な表現である。

また、愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。配慮、責任、尊敬、知である。
愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。愛の本質は、「何かを育てる」ことにある。
責任は、母子の関係についていえば、生理的欲求に対する配慮を意味する。おとなどうしの愛の場合は、相手の精神的な求めに応じることである。責任とは、他の人間が何かを求めてきたときの、私の対応である。
責任は、尊敬が欠けていると、容易に支配や所有へと堕落してしまう。そして人を尊敬するには、そのひとのことを知らなければならない。他者と生産的に融合したとき、私はあなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る。


生産的に愛するには、信じること(信念)が必要だ。自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができると「信じる」こと。そして、たとえば母親が子供の成長を信じるように、他人の可能性を「信じる」こと。その信念があるかないかが「洗脳」と「教育」のちがいだ。洗脳を行う者は、他人の生命力と可能性を信じていない。一方、教育とは、他者が可能性を実現してゆくのを助けることだ。そして信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望さえも受け入れる覚悟である。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない



僕はロボットのような世界を、蔑んでいるのだろうと思う。
そして世界を知りもしないで決めつける自分を、世界を愛することのできない自分を、蔑んでいると思う。
愛を阻んでいるのは、自分のなかの偏見や思い込みではないか。
偏見や思い込みが生まれるのは、良く知らないからではないか。
僕が今必要としているのは、自分を、世界を知ることではないか。
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by santos0113 | 2010-03-10 17:22 | book

連戦連敗

連戦連敗

安藤 忠雄 / 東京大学出版会

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自分たちの思いと、現実の諸条件との折り合いがつかずに行き詰り、苦しむのはいつものことで、結局計画中断という事態も少なくはないし、コンペに挑戦しても、大抵が敗退に終わっている。都市への提案に至っては、実現に至るどころか、聞いてももらえないことがほとんどです。…特に現在は、社会が建築を必要としていない。

30年余りの建築家としての仕事、それも敗退に終わったコンペを通して、安藤忠雄の建築への、またそれに限らず建築を通した社会への考えが述べられている。「連戦連敗」というタイトル通り、ことごとく負けに負けまくっている安藤忠雄の姿が見られる。
ところが、結果はまたしても落選でした。
文章中何度も出てくる。爽快な程の負けっぷり。
それでも全体を通して見られるのは、
結果としては私はこのコンペに負けはしましたが、参加したことは決して無駄ではありませんでした。

結果は敗退でしたが、建築の再生という今日的な課題を考える上で、非常に重要な示唆を与えてくれたプロジェクトであったように思います。

といった、あくまで謙虚かつあきらめない姿勢。安藤忠雄という人物の内面を窺い知れる。
そしてあとがきではこう締められている。
私は私なりに、建築との戦いを続けている。これから社会に出て行こうとする学生たちも覚悟しておいたほうがよい。建築家とは厳しく、困難な生き方だ。自らの思い通りに事が進むことなどほとんどない。日々、闘いである。だが、だからこそ建築は面白い。信念をもって、それをつらぬくために闘って生きていく―これほど“自分”を頼りに生きていくことのできる職業はほかにないのだから。

この本は建築の技術論などではない。安藤忠雄の精一杯の応援メッセージ。
設計を行い、その都度反省を繰り返し、安藤忠雄は成長を続けているように思える。設計を通して社会と向き合い、自分と向き合い、結果学ぶものがあるというのは、非常に共感。(僕の数少ない、また規模も比べるまでもない実習と比べるのはおこがましいかもしれないけど)ただ僕に、その過程を繰り返し繰り返し続けることのできる肉体的、精神的頑強さが、あるいは設計という仕事に対する誠実さが果たしてあるのだろうか。(やってみなきゃ分からないだろう)という思いとは反対に、僕は何となく無いだろうな、という答えを出してしまっている。

建築への考えについて。
私は、建築は機能を持つことで現代に適応してこそ生命をもち得るものだと考えています。歴史的建造物もまた博物館的に保存するだけではなく、現代に活き活きと機能させてやらなければ、残す意味はない。

新旧の衝突。ただ古いものを残すのでなく、といって全く新しいものにするのでなく。新しいものと古いものを対話させ、歴史を積み重ねていくところに何か生まれるものがあるのだろうか。
自然を巧みに生かした気候適応の方法といった、その土地の特性をつぶさに読み取り、味方につけていこうとする姿勢は、人間と自然とのかかわりを考える上で最も大切なところです。こうした地域的なものへの眼差しこそが、現代のいわゆるエコロジー建築に欠落している部分のように思います。

先日読んだウィリアム・モリスの庭でも同様の事が述べられていた。さらにプランタゴの田瀬理夫さんも言っていたように思う。今の時代に求められているものであり、これからだんだん出てくるものではないか。
突き詰めていくと、建築の分野で環境問題に対してできる最大の貢献とは、結局何も作らないということになりそうですが、それではあまりに極論になってしまいます。となると、その次には、その規模を極力小さくしようというところに行き着くのではないでしょうか。その時、既存の建物を修復・再生していくということが重要な意味を持って浮上してきます。

自然を破壊するのか、保護するのかという極端な2択だけではない。理想を訴えるだけでは、破壊は進行するばかり。出来ることをやっていこうよ、と。また、
単に自然環境だけでなく、社会的・文化的な環境についても、それぞれの相互作用関係を踏まえて考察することが不可欠なのだと思います。

環境というのは、いろんなものが複雑に絡み合って出来ているもので、それだけ相互作用もあることを考えなければならない。ということは、アプローチの仕方も幾通りもあると考えられる。
建築は、結局そのつくり手である建築家を越え得ないもの。芸術性や論理性を問われつつも、なお社会的産物としての側面をもつ建築に、それでも理念を掲げ、自らの意思を介入させていくのが建築家の仕事だから。


ランドスケープにも、同じことがいえるだろうか。自らの意思を介入するというプロセスはあるだろうか。分からない。
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by santos0113 | 2010-03-05 22:50 | book

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

内田 樹 / 講談社

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今の子供たちは、学びの場に立たされたとき、最初の質問として、『学ぶことは何の役に立つのか』と訊いてくる
(つまり意味ないなら、やる必要はないだろ、と)
そういう考え方は確かに身近に良く感じることがあり、自分だって当てはまる。でも上の世代の人たちはそう考えてなかったといえるのかな。
そして、自分もあてはまるとは言った。でも今まで僕が生きてきた中で、やってみたら意外と面白かった、教えられた時は分からなかったものが、期間をあけて唐突に腑に落ちた、というような体験がいくつかある。僕は基本的に役に立つものをやる(役に立たないものはやりたくない)、という姿勢だけれど、世の中のほとんどのものは何かしらの役に立つ、そしてそれは自分次第と思っている。合理主義である一方、経験主義でもある、と思う。そしてそれは自分の最大の美点だと思っている。
今の子供たちと、今から30年くらい前の子供たちの間のいちばん大きな違いは何かというと、それは社会関係に入っていくときに、労働から入ったか、消費から入ったかの違いだと思います。

労働することで社会的に個人として認められるか、
消費者として金を持つことで個人として認められるか。
世の中が便利になりすぎた、と思う。子供時代に労働の機会がない。
教育の方法云々に収まる問題ではない。社会全体として、これ以上新しい便利な技術を次々に生み出すのでなく、今ある問題を見つめてしっかりフィードバックすることが大切なのではないかな。
現在の教育の問題は、単に子供たちの学力が低下しているということではありません。それが子供たちの怠惰の帰結であるのでなく、努力の成果である、ということです。

自己決定・自己実現=自立した人間=孤立した人間、と呼びならわされてきたことが、孤立した人間を多く生み出し、学ぶことを拒否させている。自己決定・自己実現のために頑張って学びから逃げている。
確かに、あえてダルそうに振る舞うこととか真面目にやらないことがカッコいい!!みたいなのはあった。それと同じかな。
時間が経過するにつれて、さまざまな経験を取り込んで、自分自身の質を向上させてゆく能力、教育の目標はそれを習得させることに尽きると僕は思っています。
すごく賛同します。

全体的に推測の域を出ない感じで、鵜呑みにするのは危険だけど、すごく面白い視点だと思った。
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by santos0113 | 2010-03-05 22:42 | book

早稲田祭

今日は早稲田の学祭に行ってきました。
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女子高生、じいちゃんばあちゃん、コスプレしてる人、おたくっぽい人…色んな人がいます。
何だか不思議。
色んな年代、色んな目的が交錯してるわけで、エネルギーにあふれている気がします。
夜のクラブのあのカオスな雰囲気に若干通じるものがあるのかもしれない。



学祭となれば、やっぱりナンパ目的で集まる人は数多くいるわけで。
その「ナンパ」という行為について自分的にすごく共感できる記事がありました。
「ナンパ」の因数分解


ナンパって言う響きがいかんよね。性を連想してしまう。
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by santos0113 | 2009-11-08 00:16 | diary