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ふと

他でもない、日本にとってのパーマカルチャー的なランドスケープの在り方、とは。
そこに自分が必要だと思うものがあるのかな。
持続可能性を追求しつつ、日本における望ましい風景をつくること。
パーマカルチャーとランドスケープという2つの事柄を結びつけ、デザインすること。
もっと両方のことを知らなければならない。

パーマカルチャーを取り入れている舎爐夢(シャロム)ヒュッテ
スタッフ体験ステイを募集しているみたい。行こうかな。
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by santos0113 | 2010-03-07 14:23 | diary

パーマカルチャー

パーマカルチャー―農的暮らしの永久デザイン

ビル モリソン / 農山漁村文化協会

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パーマカルチャーというのは、人間にとっての恒久的持続可能な環境をつくりだすためのデザイン体系の事である。パーマカルチャーという語そのものは、パーマネント(permanent 永久の)とアグリカルチャー(agriculture 農業)をつづめたものであるが、同時にパーマネントとカルチャー(文化)の縮約形でもある。文化というものは、永続可能な農業と倫理的な土地利用という基盤なしには長くは続きえないものだからである。

元はミクシィのコミュニティで出会ったこの言葉。
パーマカルチャーの核心はデザイン(設計)である。デザインとは物と物のあいだの関連の事である。…デザインすべき構成要素をもっとも効率よく機能させるためには、それらを適所に配置しなければならない。

要するに、持続可能な生活をしよう、出来るだけ余計なエネルギーを使わないために、効率的なやりかたを紹介しよう。という本。というよりももはや教科書。現代における農業の在り方、というのを突き詰めた姿だと思う。パーマカルチャーという分野をなぜ園芸学部で取り上げないのか全く分からない。
土壌改良の仕方から、防風林の配置様式、家屋の間取り、果ては動物の飼い方まで、幅広く、かつ驚くほど細かなところまで教えてくれる。それは
それぞれの構成要素の間に実際に役立つ関係をつくりあげ、ひとつの要素が必要とするものが、他の要素の産生物によって充たされるようにするのである。そのためには、全ての構成要素について、その基本的特徴と、それが必要とするものと、その産生物とを良く知っておくことが必要である。

という考えから来る。
ニワトリを飼う。ニワトリを畑に入れれば地面をひっかいて除草し、あとには肥料を残してくれる。畑の余った作物はニワトリが処理する。といった風に、キャベツはキャベツ、ニワトリはニワトリ、といった風な従来の農業から一転、それぞれを関連付けて、うまいこと楽してやっていこうよ、と。膨大な量のものと関連付けて、これでもかというほど合理的な農業生活を提案。
ビル・モリソンは食物生産をもう一度、都市部に取り戻すことを目指している。


ビル・モリソンは切実にメッセージを送ってくる。
ときどき、われわれ、地球上の者すべてが、意識的なあるいは無意識的な陰謀に捕えられて、自分自身を無力にしているように思われる。しかしながら人間こそが、他の人が生きていくのに必要な物全てを生産するのであり、そうして初めてともに生き残ることが出来るのである。飢饉であろうと、不正であろうと、またこの世界のばかげた考え方であろうと、全てそれらを立て直すことが出来るのは私たち自身なのだ。



私の効果的な活動の妨げになっているものは、都市の権威に頼ろうとする、私たち自身の受動性にある。

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by santos0113 | 2010-03-06 18:51 | book

連戦連敗

連戦連敗

安藤 忠雄 / 東京大学出版会

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自分たちの思いと、現実の諸条件との折り合いがつかずに行き詰り、苦しむのはいつものことで、結局計画中断という事態も少なくはないし、コンペに挑戦しても、大抵が敗退に終わっている。都市への提案に至っては、実現に至るどころか、聞いてももらえないことがほとんどです。…特に現在は、社会が建築を必要としていない。

30年余りの建築家としての仕事、それも敗退に終わったコンペを通して、安藤忠雄の建築への、またそれに限らず建築を通した社会への考えが述べられている。「連戦連敗」というタイトル通り、ことごとく負けに負けまくっている安藤忠雄の姿が見られる。
ところが、結果はまたしても落選でした。
文章中何度も出てくる。爽快な程の負けっぷり。
それでも全体を通して見られるのは、
結果としては私はこのコンペに負けはしましたが、参加したことは決して無駄ではありませんでした。

結果は敗退でしたが、建築の再生という今日的な課題を考える上で、非常に重要な示唆を与えてくれたプロジェクトであったように思います。

といった、あくまで謙虚かつあきらめない姿勢。安藤忠雄という人物の内面を窺い知れる。
そしてあとがきではこう締められている。
私は私なりに、建築との戦いを続けている。これから社会に出て行こうとする学生たちも覚悟しておいたほうがよい。建築家とは厳しく、困難な生き方だ。自らの思い通りに事が進むことなどほとんどない。日々、闘いである。だが、だからこそ建築は面白い。信念をもって、それをつらぬくために闘って生きていく―これほど“自分”を頼りに生きていくことのできる職業はほかにないのだから。

この本は建築の技術論などではない。安藤忠雄の精一杯の応援メッセージ。
設計を行い、その都度反省を繰り返し、安藤忠雄は成長を続けているように思える。設計を通して社会と向き合い、自分と向き合い、結果学ぶものがあるというのは、非常に共感。(僕の数少ない、また規模も比べるまでもない実習と比べるのはおこがましいかもしれないけど)ただ僕に、その過程を繰り返し繰り返し続けることのできる肉体的、精神的頑強さが、あるいは設計という仕事に対する誠実さが果たしてあるのだろうか。(やってみなきゃ分からないだろう)という思いとは反対に、僕は何となく無いだろうな、という答えを出してしまっている。

建築への考えについて。
私は、建築は機能を持つことで現代に適応してこそ生命をもち得るものだと考えています。歴史的建造物もまた博物館的に保存するだけではなく、現代に活き活きと機能させてやらなければ、残す意味はない。

新旧の衝突。ただ古いものを残すのでなく、といって全く新しいものにするのでなく。新しいものと古いものを対話させ、歴史を積み重ねていくところに何か生まれるものがあるのだろうか。
自然を巧みに生かした気候適応の方法といった、その土地の特性をつぶさに読み取り、味方につけていこうとする姿勢は、人間と自然とのかかわりを考える上で最も大切なところです。こうした地域的なものへの眼差しこそが、現代のいわゆるエコロジー建築に欠落している部分のように思います。

先日読んだウィリアム・モリスの庭でも同様の事が述べられていた。さらにプランタゴの田瀬理夫さんも言っていたように思う。今の時代に求められているものであり、これからだんだん出てくるものではないか。
突き詰めていくと、建築の分野で環境問題に対してできる最大の貢献とは、結局何も作らないということになりそうですが、それではあまりに極論になってしまいます。となると、その次には、その規模を極力小さくしようというところに行き着くのではないでしょうか。その時、既存の建物を修復・再生していくということが重要な意味を持って浮上してきます。

自然を破壊するのか、保護するのかという極端な2択だけではない。理想を訴えるだけでは、破壊は進行するばかり。出来ることをやっていこうよ、と。また、
単に自然環境だけでなく、社会的・文化的な環境についても、それぞれの相互作用関係を踏まえて考察することが不可欠なのだと思います。

環境というのは、いろんなものが複雑に絡み合って出来ているもので、それだけ相互作用もあることを考えなければならない。ということは、アプローチの仕方も幾通りもあると考えられる。
建築は、結局そのつくり手である建築家を越え得ないもの。芸術性や論理性を問われつつも、なお社会的産物としての側面をもつ建築に、それでも理念を掲げ、自らの意思を介入させていくのが建築家の仕事だから。


ランドスケープにも、同じことがいえるだろうか。自らの意思を介入するというプロセスはあるだろうか。分からない。
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by santos0113 | 2010-03-05 22:50 | book

ウィリアム・モリスの庭

ウィリアム・モリスの庭―デザインされた自然への愛

ジル ハミルトン / 東洋書林

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モリスの芸術作品をつらぬいて切れることの無い糸、それは原産植物相である。

「庭は、家を周囲の地域とつなげるための花の延長線として機能して、建物を『まとう』ものでなければならない。」

「庭は“へや”の連なりでなければならない、とモリスは確信したのである。その庭には、プライバシーの保てる“壁”としての生け垣、編み枝作りの垣、そして木があり、真っすぐな線をなす歩道とボーダーがしつらえられ、咲き誇る花々で装飾されている。」

「モリスは、公園に建てられたパラディオ式(16世紀のイタリアの建築家の建築様式)の邸宅を全く嫌った。なぜならそれらは、その地域との関連性や連続性が無いからである。彼は、石でも塀でも、納屋や建物であろうと、その区域の伝統からもたらされる構築物を好んだ。」

「モリスは自然な花を大切にした。そして植物に対するそのような操作(花の大きさや花弁の数を増やすために花を交配し、より目立つ八重咲きに改造するような操作)と、その結果か場開発された花―彼の言葉では『美を考えない変化、変化のための変化』の氾濫を嘆いたのである」


ウィリアム・モリスの残した数々の言葉を通して、僕が勝手に解釈しているランドスケープデザインの精神と似通う部分が多く見られる、と感じた。つまりそれは簡潔に言うと、生み出すデザインではなく、守り、生かすデザインということで、もちろんそれのみではないけれど。
「芸術の最も偉大な側面は、日常生活の芸術であり、それは歴史的な建物が示している。過去は現代の一部になっていくからである。」

モリスは生活に密着した身の回りのもの、壁紙・カーテン・家具・書籍等さまざまな物を精力的にデザインし、生活と芸術を一致させようとする姿勢が見られる。何か似ている、と思ったのが、最近知った加山又造という日本画家。この人も着物や茶道具から食器など、生活の中で使われる物のデザインを手がけていた。“用と美”という言葉が好きだ。用あってこその美だと感じるけど、用ばかりを重視しても、それはそれで寂しいのかな。ただ、実習で団塚先生が大切にしていた「普段使うものに遊び心を」ってのはもっといろんな人が持ってほしい考えだと思うし、自分も持ちたいと思う。

モリスのデザインした作品を見ていると何か日本的だなと感じた。色合いといい、形状といい、唐草模様のような印象を受ける。と、思って調べてみたら、日本趣味があるそう。どこか親近感のあるデザインだと思う。
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by santos0113 | 2010-03-05 22:45 | book

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

内田 樹 / 講談社

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今の子供たちは、学びの場に立たされたとき、最初の質問として、『学ぶことは何の役に立つのか』と訊いてくる
(つまり意味ないなら、やる必要はないだろ、と)
そういう考え方は確かに身近に良く感じることがあり、自分だって当てはまる。でも上の世代の人たちはそう考えてなかったといえるのかな。
そして、自分もあてはまるとは言った。でも今まで僕が生きてきた中で、やってみたら意外と面白かった、教えられた時は分からなかったものが、期間をあけて唐突に腑に落ちた、というような体験がいくつかある。僕は基本的に役に立つものをやる(役に立たないものはやりたくない)、という姿勢だけれど、世の中のほとんどのものは何かしらの役に立つ、そしてそれは自分次第と思っている。合理主義である一方、経験主義でもある、と思う。そしてそれは自分の最大の美点だと思っている。
今の子供たちと、今から30年くらい前の子供たちの間のいちばん大きな違いは何かというと、それは社会関係に入っていくときに、労働から入ったか、消費から入ったかの違いだと思います。

労働することで社会的に個人として認められるか、
消費者として金を持つことで個人として認められるか。
世の中が便利になりすぎた、と思う。子供時代に労働の機会がない。
教育の方法云々に収まる問題ではない。社会全体として、これ以上新しい便利な技術を次々に生み出すのでなく、今ある問題を見つめてしっかりフィードバックすることが大切なのではないかな。
現在の教育の問題は、単に子供たちの学力が低下しているということではありません。それが子供たちの怠惰の帰結であるのでなく、努力の成果である、ということです。

自己決定・自己実現=自立した人間=孤立した人間、と呼びならわされてきたことが、孤立した人間を多く生み出し、学ぶことを拒否させている。自己決定・自己実現のために頑張って学びから逃げている。
確かに、あえてダルそうに振る舞うこととか真面目にやらないことがカッコいい!!みたいなのはあった。それと同じかな。
時間が経過するにつれて、さまざまな経験を取り込んで、自分自身の質を向上させてゆく能力、教育の目標はそれを習得させることに尽きると僕は思っています。
すごく賛同します。

全体的に推測の域を出ない感じで、鵜呑みにするのは危険だけど、すごく面白い視点だと思った。
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by santos0113 | 2010-03-05 22:42 | book

3月2日 日記

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昼前に起きた。
ひげを剃った。服も着替えた。
玄関まで行ったけど引き返して、家にこもることにした。

楽しかった夜の次の日は、何か寂しい。

お茶をいれる。熱いから待つ。
すごくぼーっとする。
上村愛子の
「かっこよかったでしょ?」
って言葉が何故か思い出される。
かっこよかった。
メダルに関係なく誇らしげなその言葉が
妙に頭に残っている。

かっこいい大人になりたい、と考える。
けど俺が考えるかっこいい大人に、俺はなれないだろうな、とも思う。
でもそれが残念だという感じはしない。
当たり前のようだけど、俺は俺で、それは悪いことではないんだろうな、と思う。

自分が親になった時のことを考える。結婚できるとは、子供が出来るとは限らないけど。
兄貴が親になったところは割とイメージできる。
姉貴が親になったところはあんまりイメージできない。
でも何だか楽しそうにやってそうだ、とは思う。
自分が親になったところは、全くイメージできない。
何が正しくて何が間違ってるなんて自分だって分からないのに。
俺が、子供に何を教えればいいのか。
自分の子供とどう接すればいいのか。
こんな自分が子供を育てられる自信はない。
反抗期の息子に対して情けないことになってそうだな、とか思う。
けど情けなくても、俺が俺の親に対するように、俺の子供にとっても少しは尊敬に値する親でありたい、と思う。

きっと裕福な暮らしはさせてあげられないだろうな、多分。
有能にバリバリ働けるような人間じゃない。
あんまり出世したいとも思わない。
それにすぐさぼるし。
すごくいい物に囲まれなくても
それなりに食べることが出来て
毎日のちょっとした楽しみを味わっていければ
そんな生活が出来ればいい。
意外と平凡な生活が一番合ってるのかもな、とか思う。
たまに昨日の夜のように笑っていられる人達と、それができる時間があればそれが俺にとっての1つの幸せだろうな。
それは自己中な考えかな。

何か寂しくなったとき、考えてるとき、
兄姉の生活音が無性に有り難く感じる。
不必要な干渉が無く、ただそこにいる、という在り方。
結局今日一日何もせず、ぼーっとしてたら終わった。
たまにはいいんじゃないかな。
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by santos0113 | 2010-03-02 01:51 | diary