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茶の本

茶の本 (岩波文庫)

岡倉 覚三 / 岩波書店

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岡倉天心が1906年に出した、僅か90ページほどの薄い本。
岡倉天心、、すごい。
読み始めてわずか6ページで僕は胸に熱いものがこみ上げるのを抑えられない。
岡倉天心が述べていることは、つまりはフロムの「愛するということ」と共通する部分はないか。
お互いを完全に理解することなんて不可能だ。それでも、認め合うことはできる。お互いの短所長所を補い合うことはできる。
日本という国が積み重ねてきた文化のレベルの高さに、そしてそれが崩れている現代を思い知る。
それにしても今から100年以上も経っているというのに、内容の色あせなさに驚く。
100年の間に僕らが行ってきたことは、結局のところ何も変わりなどしなかったのだろうか。
あるいは、ますます良いとは言えない方向に向かっているのだろうか。

第一章
茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能な物を成就しようとするやさしい企てであるから。

煎ずるところ人間享楽の茶碗は、いかにも狭いものではないか、いかにも早く涙であふれるではないか、無辺を求むる渇のとまらぬあまり、一息に飲みほされるではないか。

おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見逃しがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例にすぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮人とみなしていたものである。しかるに満州の洗浄に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。…もしわれわれが文明国たる為には、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。

アジアの青年は現代的教育を受けるために、西洋の大学に群がってゆく。われわれの洞察力は、諸君の文化に深く入り込むことはできない。しかし少なくともわれわれは喜んで学ぼうとしている。

諸君はわれわれを「あまり茶気があり過ぎる」と笑うかもしれないが、われわれはまた西洋の諸君には天性「茶気がない」と思うかもしれないではないか。
東西両大陸が互いに奇警な批評を飛ばすことはやめにして、東西互いに得る利益によって、よし物がわかって来ないとしても、お互いにやわらかい気持ちになろうではないか。お互いに違った方面に向かって発展して来ているが、しかし互いに長短相補わない道理はない。諸君は心の落ち着きを失ってまで膨張発展を遂げた。われわれは侵略に対しては弱い調和を創造した。諸君は信ずることができますか、東洋はある点で西洋にまさっているということを!

現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大な努力によって全く粉砕せられている。世は利己、世俗の闇に迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利の為に行われている。東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜のごとく、人生の宝玉を得ようとすれどそのかいもない。
…まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しいとりとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。


第二章
茶室の調子を破る一点の色もなく、物のリズムをそこなうそよとの音もなく、調和を乱す一指の動きもなく、四囲の統一を破る一言も発せず、全ての行動を単純に自然に行う―こういうのがすなわち茶の湯の目的であった。そしていかにも不思議な事には、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。茶道は道教の仮りの姿であった。


第三章 道教と禅道
茶の湯は禅の儀式の発達したものであるということはすでに述べたところであるが、道教の始祖老子の名もまた茶の沿革と密接な関係がある。…道教と禅道とに対する興味は、主としていわゆる茶道として実際に現れている、人生と芸術に関するそれらの思想に存するのである。

「道」は「径路」というよりもむしろ通路にある。宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとして絶えずめぐり来る永遠の成長である。…「道」は大推移とも言うことが出来よう。主観的に言えば宇宙の気であって、その絶対は相対的なものである。

「一定」「不変」は単に成長停止を表す言葉に過ぎない。屈原いわく「聖人はよく世とともに推移す。」われらの道徳的規範は社会の過去の必要から生まれたものであるが、社会は依然として旧態にとどまるべきものであろうか。

われわれは恐ろしく自己意識が強いから不道徳を行う。おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。他人に真実を語ることを恐れているから良心をはぐくみ、おのれに真実を語るを恐れてうぬぼれを避難所にする。世の中そのものがばかばかしいのにだれがよくまじめでいられよう!といい、物々交換の精神は至る所に現れている。…男も女も何ゆえにかほど自己を公告したいのか。奴隷制度の昔に起源する一種の本能に過ぎないのではないか。

道教がアジア人の生活に対してなしたおもな貢献は美学の領域であった。…道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂き世の中にも美を見出そうと努めている。

もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば、人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。もののつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣である。われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。

芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によって分かる。何物かを表さずにおくところに、見る物はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強く引き付けてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる

禅の主張によれば、事物の大相対性からみれば大と小との区別はなく、一原子の中にも大宇宙と等しい可能性がある。極致を求めんとするものはおのれみずからの生活の中に霊光の反映を発見しなければならぬ。…茶道いっさいの理想は、人生の些事の中にでも偉大を与えるというこの禅の考えから出たものである。道教は審美的理想の基礎を与え禅はこれを実際的な物とした。


第四章 茶室
茶室はある個人的趣味に適するように建てらるべきだということは、芸術におけるもっとも重要な原理を実行することである。芸術が充分に味わわれるためにはその同時代の生活に合っていなければならぬ。それは後世の要求を無視せよというのではなくて、現在をなおいっそう楽しむことを努むべきだというのである。また過去の創作物を無視せよというのではなくて、それをわれらの自覚の中に同化せよというのである。伝統や形式に屈従することは、建築に個性の現れるのを妨げるものである。

「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均整を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。…真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。人生と芸術の力強いところはその発達の可能性に存した

第五章 芸術鑑賞
美術鑑賞に必要な同情ある心の交通は、互譲の精神によらなければならない。美術家は通信を伝える道を心得ていなければならないように、観覧車は通信を受けるに適当な態度を養わなければならない…名人にはいつでもごちそうの用意があるが、われわれはただみずから味わう力がないために飢えている。

われわれの限定せられた性質、代々相伝の本賞はもちろんのこと、慣例、因襲の力は美術観賞力の範囲を制限するものである。われらの個性さえも、ある意味においてわれわれの理解力に制限を設ける物である。そして、われらの審美的個性は、過去の創作品の中に自己の類縁を求める。もっとも、修養によって美術観賞力は増大するものであって、われわれはこれまでは認められなかった多くの美の表現を味わうことができるようになるものである。が、畢竟するところ、われわれは万有の中に自分の姿を見るにすぎないのである。すなわちわれら特有の性質がわれらの理解方式を定めるのである。


第六章 花
喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。…花無くてどうして生きていかれよう。花を奪われた世界を考えてみても恐ろしい。

悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。…花を飾るのは富を表す一時的美観の一部、すなわちその場の思いつきであるように思われる。これらの花は皆その騒ぎの済んだあとはどこへ行くのであろう。しおれた花が無情にも糞土の上に捨てられているのを見るほど、世にも哀れな物はない。

どうして花はかくも美しく生まれて、しかもかくまで薄命なのであろう。虫でも刺すことができる。最も温順な動物でも追いつめられると戦うものである。ボンネットを飾るために羽毛をねらわれている鳥はその追い手から飛び去ることができる、人が上着にしたいとむさぼる毛皮のある獣は、人が近づけば隠れることが出来る。悲しいかな!翼ある唯一の花と知られているのは蝶であって、他の花は皆、破壊者にあってはどうすることもできない。彼らが断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわれらの無情の耳へは消して達しない。

しかしあまりに感傷的になることはやめよう。奢る事をいっそういましめて、もっと壮大な気持ちになろうではないか。…われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。変化こそは唯一の永遠である。

花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚にすることができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところはただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわれは「純潔」と「清楚」に身をささげることによってその罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。…茶人たちは、花を選択することでかれらのなすべきことは終わったと考えて、その他の事は花みずからの身の上話にまかせた。

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by santos0113 | 2010-03-15 23:19 | book

チャリティほにゃらら

昨日3月14日、「Love for haiti」に行ってきた。
MINMI、若旦那主催のハイチ地震被災者のためのチャリティライブだが、いまいち楽しむことが出来なかった。
なぜ?抑え気味の曲が多かったこと。これは確かにあるのかもしれない、けど大きな原因は絶対それじゃない。
ずっと違和感が解けないまま、8時間に及ぶライブを聴いていた。
周りのお客さんは楽しんでいるようだ。問題は自分にあるのかも。
けど友人もしかめ面で「何か、ちゃうねん」とひたすらに言っていた。
この違和感は何??

暇なので、一日たった今、ちょっと考えてみる。
そもそもの違和感は、
二グループ目のアンダーグラフの時に始まった。

僕はアンダーグラフを全然知らない。
それは問題ではない、と思う。
全く知らない曲であったとしても、経験上伝わってくるものはある。(ん、何か曖昧…)
実際、そのあとのcharaのライブは素晴らしかった。
僕はcharaを全然知らない。
曲も知らなかったけれど、何か伝わってくるものがあった。(表現できない)
別に僕はアンダーグラフを否定したい訳ではない。
けど正直に言って、アンダーグラフの後、どっと疲れた。本当に。ぐったりするほどだった。
それがcharaが終わった後に元気になっている不思議。

charaにあってアンダーグラフに無かったもの。
一つは、さっきからうまく表現できない「何か伝わってくるもの」だろうか。
二つ目に、charaがハイチ地震について何も触れなかったことだ。それが意識的なのか分からないけど。
僕にはそれがとても好印象だった。
違和感の始まり、それはアンダーグラフの
「ハイチに愛を届けましょう!!」
という言葉からのように思う。
いや、正確に言うと、その言葉を何度も演奏中繰り返し言っていたことからだろうか。
そしてそれはアンダーグラフに限らず、他のほとんどのアーティストにも言えることだ。
僕が純粋に楽しめたのは、Dragon Ash、chara、infinity16だけだったように思う。

ハイチ地震被災者のためのチャリティライブだから、ハイチ地震について触れることはまぁ当然といえば当然だろう。
アーティストという影響力のある立場からそういう問題に触れる、募金を集める。いいことだ。(ただなぜハイチ地震にだけ飛びついて、他のありふれた問題に触れる人がいないのか、ということについては疑問だけど)
ハイチ地震について少しでも何か感じて帰ってもらう。
でも、それと音楽とは別ではないか。
ライブという形式をとっているからには、ほとんどのお客さんは音楽を求めて集まったはずだ。
決してハイチ地震について何か知りたくて集まったわけでは、無いはず。
それなのに初めから終わりまで繰り返し繰り返し、ハイチ地震の事を、しかも同じような内容を聞かされても、僕はどうすればいいのか分からない。
音楽を純粋に楽しんじゃいけないのか?ハイチ地震を知るのはその後ではだめなのか?
でも周りのお客さんは涙など流している。僕にはもう何が何だかわからない。

音楽で考えるから、分かりにくいんだろうか。
例えばこれが「ハイチ地震チャリティお笑いライブ」なら、どうだろうか。
お客さんは、お笑いを求めるだろう、そりゃ。
それなのに出てくる芸人ごとに、ハイチ地震について語られて、なお且つ漫才にまでハイチ地震を織り込まれちゃあ、もうたまったもんではないんではないだろうか。
笑えるものも笑えない。

チャリティライブをやることには、概ね賛成だ。ただ、ハイチ地震について何か伝えるというのは、またそれは別の機会にして、純粋に募金だけという形でやったほうがいい気がする。
そして別にハイチ地震に限らなくてもいいじゃない。移植手術の費用が足りない人もいる。地震が起こらなくてもご飯が食べられなくて苦しんでいる人もいっぱいいる。なぜその人たちに対しては行動を起こさないんだ?


チャリティとは関係なく。
表現できなかった、「何か伝わってくるもの」とは何だろうか。
僕はずっと説明できないでいるけど、この感覚を割と信用している。
というか、何か説明できないけど感じるものっていうのを、僕は結構信用する。昨日の違和感含め。
でも説明できないことが、何かもどかしい。
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by santos0113 | 2010-03-15 15:15 | diary

独身女性の性交哲学

独身女性の性交哲学

山口 みずか / 二見書房

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多くの恋愛や結婚に関する本は、愛を称揚する一方、あまりセックスには触れていない。しかもセックスを中心に据えた本は、技術マニュアルばかりだ。だてに長年風俗嬢をやってきたわけではないので、愛とセックスについては一家言ある私。この未婚男女が大量に発生している現状を、私なりに解き明かしてみよう。

愛について、セックスという避けられがちなテーマから切り込んだ本。
「愛するということ」でも、愛という捉えどころのないものを知る上でとても参考になった。
この本は現代における、よりリアルな恋愛について語られている。読みやすい。
男が女を否定する、女が男を否定する、これは誰でも出来ることだと思う。。
著者は女だからこそ、女に対して鋭い視点で切り込んで、注意を呼び掛けている。
男に幸せを求めても、結局は幸せを決めるのは自分自身に他ならないんだぞ、と。
何だか厳しい態度に思われるのは、著者の愛だ。

●男女は同一ではない。
女子の憧れは、大好きな彼と一生ラブラブ。

恋愛ってものは、世界でたった一人の運命の恋人を探す、ロマンチックなドラマでなくちゃ!
他の誰とも違う、特別な相手として見染められてこそ意味があるのだ。誰でもいいからとりあえず、なんてもってのほか!
ええ、これは女子の身勝手な言い分。

男にとっては恋愛はそこまで優先されるものではない。
男は、誰でもいいから自分のことを好きになってほしいとは思っても、実は誰でもいいのだ。…結局、自分の欲望の為だ。彼は「彼女」というアイテムがほしいだけ。

風俗嬢は、男の本音をいやというほど知らされる。…「素人」を演じてくれる風俗嬢の方が、よっぽど男の理想に近いわけさ。

男は「誰でもいい」。ただセックスと、飯を安定的に供給してくれる人を望む。そんな男にとって、恋愛を押し付けてくることは負担でしかない。疲れてしまった男が、自分の望みをかなえてくれる、風俗嬢のもとに行くことになる。
欲望と言うと、悪いものに聞こえるが、男女ともに自然なものだ。これは肯定的に認めなければならないと、最初に言っておく。

●恋愛資本主義
恋愛を経て結婚という、今では至極当たり前に思われている制度は、歴史をたどれば目新しい話だった。

男(というか、父)が女を選ぶ時代から、女が男を狙う時代の幕開け。でも、女は露骨に自分から迫るんじゃなく、男に選ばせるように仕向けるからたちが悪い。

極上の恋愛を夢見た女たちは、男を比較して吟味する術を覚えてしまったんだ。

でも、男が女に熱心になるのは、他の男より俺様が優位だと証明すること、女がセックスに応じることが、オスとしての強さの証だからだ。…女性をゲットするためというよりも、男同士の争奪戦なのかもしれない。

男の目を意識すればするほど、類型化した可愛い子ちゃんにならざるを得ない。ファッションは他人に対する記号なのだから。…どんどん貪欲になった女は、それだけじゃ物足りない。もっともっとキレイになりたがる。…結局のところは、自己満足だ。

見合いと言う制度が普通だった時代、競争は起きなかった。
恋愛という概念が外から入ってくることで、女側の立場が逆転した。恋愛を追い求め、愛の無い結婚などあり得ないという態度になる。女は基本的に「王子様に迎えにきてもらいたい」願望なのだが、男は「誰でもいい」ので、自分が選んだ男に選んでもらう、という形になった。
男にとって、競争相手は自分のまわりの男となる。モテる男が勝ち組。モテない男は負け組。よって選ぶ女は、周りの男が可愛いと言っている女に集中する。女はそれに合わせて、似たような見た目になっていく。
男は女側の欲を満たすために、金や、女の要求する恋愛を用意する。女はそれに対してセックスという形で返す。別に高いものを食いたい訳じゃない。高いものを奢られることで自分の価値を確かめたい。
これが恋愛資本主義である。
女は商品で、その価値はいかに男に大事にされるか、金を使ってもらえるかにかかっている。それを山口さんは
お金をつかってもらえるワタシ、お金のある人から選ばれるワタシ、金に全てが集約される。
…女であるという資本を金に換えることが売春ならば、お金持ちと結婚したいのも売春と大差ない。

と言っている。

●恋愛とはそもそもなんだろう?
恋愛感情の無い結婚だったらしないほうがマシ。
それだけ恋愛至上主義思想は根深いのだ。

不倫ブームも、熟年離婚も、必然だ。
これだけ恋愛がもてはやされたら、結婚したら恋愛は終了(女だけ)なんて、やってられないだろう。

山口さんは恋愛というものを、6つの要素に分類している。
1.広義の知的関係要素(価値観が合う、一緒にいておもしろい、人間的に成長できる)
2.性的欲求合致要素(セックスの快楽が満たされる)
3.安定感満足要素(なじみがわく、孤独が回避される、安らげる、家族的きずな)
4.社会的地位達成要素(見栄えが良い、誰かに自慢できる)
5.生活便利要素(経済的なメリット)
6.激情ゲーム要素(恋愛神話を内面化する側面)
恋愛とはこれら六要素を点数化した時の総合得点が高い時に発動する男女一体化幻想のことである。人によって、この要素のどこに思い比重をかけるかは異なる。

6の「激情ゲーム要素」というのは、「運命の恋」とか、「王子様願望」だ。つまりは恋愛に抱いている、抱いていたい幻想だ。そしてこの「激情ゲーム要素」が、独立的には必ずしも恋愛独自ではない1~5を統括するのだそうだ。
例えば、「ご飯をおごってほしい(5)し、友達はみんな彼氏持ちなのにあたしだけ恋人いないとかヤバい(4)し、たまにはセックスしたい(2)し、癒されたい(3)し、彼氏と一緒にいるときは楽しい(1)し」…というように、本来5つの欲望が複合しているのが恋愛の真の姿なのだけれども、わたしたちは自分自身のエゴイスティックな欲望をきちんと直視せずに、「だって好きだから」(6)という言葉で己の欲望を正当化してしまうのだ。
自分の欲望を恋愛という言葉に隠してしまって、ちゃんと向き合っていない。
「愛のないセックスは良くない!」なんて誤魔化しだ。セックスを求めるというのは肉体的な欲望だ。
それをちゃんと認めなきゃ、と山口さんは言う。

●じゃあ、セックスって?
女はセックスを「したいかしたくないか」より「損か得か」で判断するようになった。

好きな男に迫られれば、本音は「したい」けれど、ちゃんと責任とってもらえなければ、やられ損になる。これは今でもかなりスタンダードのようだ。
セックスの目的を分類すると、生殖と快楽(趣味)に分けられる。

しかし、生殖という明確な目的のもとに性行為に及ぶ男女は少ない。
快楽のセックスは細分化できる。
①肉欲のセックス(肉体的快感を得る手段全般、自慰、売春…)
②精神的充足のセックス(自己確認、所有や束縛…)
③奉仕のセックス(売春、夫婦…)

体と心は結びついている。体が気持ちいいと「感じる」のも、精神的満足ではある。
素直に気持ちいいものは気持ちいい、でいいのに。

この3つは、男女がそれぞれ別の目的を持っていることも多い(女は愛されてる感②を求め、男は射精したいだけ①とか)し、肉体的な満足①とともに所有欲②も満たせるというふうに、重複が見られるのも常であろう。

肉体主導で、「気持ち良かったから満足するセックス」と、精神主導で「彼との一体感に満足するセックス」があるはずなのだが、両方ほしいしそれは必ず一致しているべきだとお考えの女子が多そうである。…セックス=愛という図式は、強固な感じだ。

女にとっては、セックスしてあげるんだから「責任とってね」というための確認作業になっていて、自己責任を放棄している感すらある。
セックスしたいかどうか、いちばん確実なのは、自分の気持ちだ。
でも、気持ちというか気分ってころころ変わる。セックスだって、酒の勢いでつい…ってことがあるじゃないか。そういうときに愛を言い訳にするのは、みっともないとおもう。欲望を欲望と認めることが、恥だからだろうか。

下手に愛を言い訳にすると、男が単にセックスしたくないだけなのが、「もう愛してないのね」となるし、要求を断れなくて「愛してるから我慢しなくちゃ」と、「お勤め」としてしなければいけなくなる。それもこれも、愛の名のもとに自分の性を相手に手渡しちゃったからだ。
気持ちよくなくても我慢するのは、「仕事」だからできること。
愛の無いセックスより、快楽の無いセックスに問題があるんじゃないでしょうか。

快楽はないけど、愛はある。
そして相手が求めているから仕方なく応じる。セックスをそういうものだと捉えていたら、それはキツいはずだ。…心が拒否してるのに、そこから切り離して身体だけ提供するのは、セックスというより暴力に等しい。


●恋愛と、セックスを切り離そう
ソープランドだと男性は基本的に受け身だ。
お客様はただ寝てるだけというケースも多く、最初は戸惑ったものだけど、キスしてベッドに倒れこんで愛撫するという一連の流れを、自分がリードする立場にいなってみると、男ってすごくタイヘンだってことがわかった。
女からすれば、欲望は男の方にあるから当然という前提かもしれないけど、女の子がしてほしいことと、男がしたいことにギャップがある場合、結局「あなたのセックスは自分本位」とか言われても、欲望自体は自分本位なものでしょう。
ちゃんとしたコミュニケーションとしてのセックスをしたくても、勃起と射精という目的のためには、彼本位の欲望は手放せないのでは?
そもそも、コミュニケーションとしてのセックスってなんだ?

女の側の勝手な幻想の押しつけもあるのではないか。受け身で相手を吟味しつつ、「私を快感の渦に巻き込んで~」なんて期待しすぎではないか。
女の性欲が受け身の「られたい」願望だから仕方ないのだろうか。
好きな男には征服されたい、「あなたのモノになりたい」、ふたりで一つになりたいって思うのは、女性のファンタジーだ。
それは、男の側の、女をモノにしたい、モノにした女だから好き放題に扱っていいという価値観と対を成している。自分本位のセックスをする男をなじる前に、じゃあ、自分はどうされたいのかって考えてみてもいいんじゃないか。

基本的に性欲って、肉体を使って自分の幻想を満たそうとするものだ。
どれが正しいとか、こうでなくちゃいけないという話ではない。ただ、いろいろな欲望の形があっていいんじゃないってこと。そして、女子はまず自分の主体的な欲望の在り方を、自らに問うてみてはいかがだろうか。


●男に幻想を抱かない
男は、女の人間性とかひとまず抜きにして、性的対象として女を見るために、記号を必要とする。一方で女は、男から、愛なり金なり精子なり、何がしかの満足を得るために、肉体や態度で男を誘惑しなければならない。
男から女へは無理やりセックスすることができるけど、女がその気の無い男にセックスを強要するのは不可能に近い。早い話がちんこ起たなきゃ話にならんのだ。

いくら女が「私のすべてを愛してほしい」といっても、人間的なお付き合いの中で生じる情愛と、セックスの衝動を呼び起こすための「記号」が乖離してしまえば、ちんこは萎えてしまう。それは、どちらかの責任ともいえない。

常連のお客様とのプレイの最中、彼からの他愛のない質問に普通に答えようとすると「シラけるからもうしゃべらないで」ってよく言われた。
戦闘モードを保つためのコードを外してはならないのだ。…
これは、風俗嬢相手だから特別という話ではないと思う。本質的な男の弱点ではなかろうか。

女は「この男が自分に欲情している」証として、勃起していることを求めるんだそうだ。
女は男の性規範を内面化してしまっている。
ちんこ起たないのは自分に魅力が無いからだと思ってしまう。
ちゃんとちんこ勃ててこそ一人前というのはしんどいと思う。出張ホストならば「仕事」だから、勃たなきゃ話にならないけど、夫や恋人にそれを要求するのは酷じゃないのか。
男女が対等な関係でセックスしようとすると、男は不利なんだ。


●幸せになるために
世間からの価値観は、そのままの自分でいいんだとは思わせてくれない。人の役に立つことや、男から愛されることにこそ価値があると思いこまされる。だから結婚しないことも後ろめたい。
女は、結婚して子供を産むのが一番、温かい家庭を築くのが幸せ、きめられた枠に沿って生きることが、女の幸せだという刷り込みは、洗脳に近い。けど、そこにしっくり来ないなら、いいじゃない、世間の枠からはみ出しても。

家族や恋人と束縛しあっても、本来の孤独は消えない。
一人を不安がって、自分に足りないものを他人で埋めようとするよりも、これくらいの覚悟をもつほうが、いっそ清々しいではないか。
そして、恋愛も幻想だって知った上で楽しめばいい。

自分の欲望をかなえることが一番の現代は、各々が各々の幻想に振り回されている。
けれども、みんな価値観はバラバラ。
みんな自分が一番大事。
自分を大事にしてくれる誰かに愛されたい。
その誰かだって、また同じように自分が一番大事なのだ。違う相手を受け入れる器がなくちゃ、うまくいくはずない。

人の気持ちは、がんばれば手に入るわけじゃない。
他人を自分のものにすることはできない。自分が他人のものになることもできない。彼の女になりたいって言う情熱恋愛も、結局自分を満たす手段にすぎない。人の気持ちは自分の自由にならない。
思い通りにならない人間関係の、いちばん濃密な部分が恋愛感情だ。

競争に勝てば、いい男がゲットできるかもしれない。私を幸せにしてくれる王子様はきっといる。
幻想ですよ。
もしかしたら、幻想に振り回されることこそが、人生の醍醐味なのかもしれない。

ただ、これだけは忘れちゃいけない。
自分を幸せにするのは、自分自身だ。
どうしたら幸せになれるかは、各々の心の中に問うしかない。



男と女は別の生き物だ。結局自分を幸せにするのは自分自身だ。男が幸せにしてくれる、なんてのは幻想だ。
例えお互いを理解することはできなくとも、それは理解しなくてはいけないと思う。
そこのところを理解しなければ、本当の愛というものは見えないのではないかと思う。
自分の欲を捨てる必要はない。ただ、その欲を隠して他人に依存することは甘えでしかない。
まずは、自分の欲と向き合うべきじゃないだろうか。無意識的なものも合わせて。
それは女だけではない、男も同じことだ。というより男女の関係だけではない、全てにおいて。
その欲とどう付き合っていくのかが大事だと思う。
重要なのは知ることだ。
知っててもなお、欲を突き出してくるのは

嫌いじゃないな。笑
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by santos0113 | 2010-03-13 23:45 | book

3月13日 日記

デザインとは、ある対象と対象を関連付けること。
前に読んだパーマカルチャーの本に書いてあった言葉。
すごくすんなりと腑に落ちた。何も反論するところが無い。
対象と対象を関連付けるということは、ある対象ひとつではデザインは成り立たないということ。
そしていくつかの対象を関連付けることは、それぞれの知識が無ければ出来ない。
ある問題をランドスケープという手法で解決しようとする。
それにはある問題とランドスケープに関する知識が必要。
当たり前と言えば当たり前のことだったんだけど、それを良く理解していなかったことに気付いた。
最近は新聞を読んでいる。問題を正しく理解するために。もちろん全然分からんけどorz
ほんとうに優れた作家は、その時代があまりに欠いているものについて、それを欠いていること自体が意識されていないものについて、それが欠けていることが気がつかれていないという当の事実がその時代を決定しているようなものについて、書く。たとえば、その社会の「影」について。

前にも書いた内田樹のことば。
作家だけではない。ランドスケープデザインを手掛ける人としても、無視できない。



3月に入って、読書をしまくっている。
家でずっと読書してるせいか、同居している兄姉の目が何か冷たい!!笑
ニートやら引きこもりやら言われる。うーん否定出来ん笑。。。
僕もそれなりに考えて、信念を持って読書をしている。
信念を持つこととは、全面的に信用して、それが例えいい結果を生み出さないとしても、それに対する覚悟をしているということ。
ニートとか引きこもりと呼ぶのはいいんだけど、ただそれに対して否定をされることは、悲しい。
それが自分の大事に思っている人々なら尚更。ただ、彼らは彼らで僕の事を思って言っている、それは責めるべきではない。
と、何となく居づらくなって、リビングで読書してたけど部屋でやってます。部屋に引きこもって出てこない子供たち、それと同じ心境だったりするかも。
家族の誰か一人でいい、彼の考えていることは分からなくても、それを全面的に信用してあげることが大事だと思うんだ。(導く人はもちろん必要だと思うけれど。)
じゃないと彼は誰も、自分の事も信じらんなくなってしまう、気がする。

何か愚痴っぽい日記。
とにかく3月は読書をとことんやってみよう。レビューも書こう。
何より僕は今、知識とか世の中の見方と言った情報に、飢えている。
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by santos0113 | 2010-03-13 10:42 | diary

3月12日 日記

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僕はすごくランドスケープアーキテクトになりたい!という訳じゃない。
別に設計の仕事をめちゃくちゃしたい、という訳じゃない。
むしろサラリーマンとか、あるいはごみ収集員とかの方が自分には合っているんじゃないかとさえ思える。
ただ僕が思うのは、ほんのささやかなことでいい、世の中の問題に対する助けになりたいということ。
誰かの助けになりたい、というより、単純にそういう行動が自分が好きなだけだ。多分。
たまたま僕の興味があるのが、自然とか、デザインという方向だった。
たまたま自然が好きで入った園芸学部にランドスケープという道があった。
それだけ。
ランドスケープアーキテクトはあくまで手段であって目的ではない。
ただ、今までデザインをしてきた中で、色んな事を見つけた。
デザインを通して、デザインを通した社会を通して。面白かった。
だから少し目指してみようかなんて思った。
無理だろうな。多分。
でも目指すことは、僕なりに頑張ってみることは、無駄ではない。
そんなこんなで結局向いてませんでした、ってのもまぁありだ。
だけどとりあえずは、頑張ってみよう、僕なりに。
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by santos0113 | 2010-03-12 23:18 | diary

村上春樹にご用心

村上春樹にご用心

内田 樹 / アルテスパブリッシング

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村上春樹の文章が好きだ。
登場人物に人間味がない、それなのに何か引き込まれてしまう、何か共感できる気がする、良く分からないけど好きだ。
そして僕は内田樹も好きだ。
なんと内田樹も村上春樹が好きだ。
そんな内田樹が村上春樹に関して書いた本。読むっきゃない。

この本は内田樹がいろんなところで書いた、村上春樹関係の文章総集編だ。
だけど村上春樹の作品の解読、意外な冬ソナと村上春樹の関係性、そして村上春樹は何を見ているのか…内田樹の目を通した村上春樹像が良く分かる。
村上春樹はデビュー当時の批評家たちの想像の射程を超えた「世界文学」をその処女作のときからめざしていた。

どうして村上春樹はこれほど世界的な支持を獲得しえたのか??
それは彼の小説に「激しく欠けていた」ものが単に80~90年代の日本というローカルな場に固有の欠如だったのではなく、はるかに広汎な私たちの生きている世界全体に欠けているものだったからである。

内田樹は言う。
ほんとうに優れた作家は、その時代があまりに欠いているものについて、それを欠いていること自体が意識されていないものについて、それが欠けていることが気がつかれていないという当の事実がその時代を決定しているようなものについて、書く。たとえば、その社会の「影」について。



僕は難しいことは良く分からないけれど、内田樹という人は分かりやすく、この世界に対しての見方という点でいつも新しい刺激を与えてくれるような気がする。あくまでそれが絶対だと言ってる訳じゃないんだよ、という立場で。

最後に僕的にタイムリーで、おおぉっと思った文章。
世の中には、「誰かがやらなくてはならないのなら、私がやる」というふうに考える人と、「誰かがやらなくてはならないんだから、誰かがやるだろう」というふうに考える人の二種類がいる。「キャッチャー」(野球のではない。村上春樹の文章に出てくる言葉。)は第一の種類の人間が引き受ける仕事である。ときどき「あ、オレがやります」と手を挙げてくれる人がいれば、人間的秩序はそこそこ保たれる。
そういう人が必ずいたので、人間世界の秩序はこれまでも保たれてきたし、これからもそういう人は必ずいるだろうから、人間世界の秩序は引き続き保たれるはずである。
でも自分の努力にはつねに正当な評価や代償や栄誉が与えられるべきだと思っている人間には「キャッチャー」(野球のではry)や「センチネル」(略。)の仕事には向かない。適性を論じる以前に、彼らは世の中には「そんな仕事」が存在するということさえ想像できないからである。


良く言われる夢を追う姿勢、決して悪いことじゃない。
一般的に言えば、いいことだ。
けど、こんなささやかな仕事のおかげで今の世界は回ってるってのも、知っておくべきだと思う。
その仕事をしろ!と言いたい訳じゃない。ただ、そういう仕事をしている人がいる、ということは忘れてはならないと、そう感じる。
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by santos0113 | 2010-03-12 22:33 | book

目からウロコの幸福学

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目からウロコの幸福学

ダニエル・ネトル / オープンナレッジ

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この本を読んで心が軽くなった。重荷を外された気分。
僕は幸福になる必要はない…というより、幸福を追求し続ける必要はないんだ。
自由だと感じる。それでいて地に足が付いている。
自分が見つけられなくて苦しんでいた部分を、しっかりとはめ込んでくれた感じ。
僕は幸福になるための道を常に探していて、それをしない人を内心馬鹿にしていたんだろう。
僕が人を見るときの基準というのは常にその一点だった。
「幸福」という計りようのないものを、どうにか探ろうとして、それを見いだせないまま誰かを自分より下だ上だとみなす、その矛盾に苦しんでいたように思う。その根底には自分こそが正しい、正しいはずだ、という思い込みがあったかもしれない。
この本は完璧な幸福なんてものはないんだ、それでも努力する意味はあるかもね、と教えてくれる。科学的に。
「人は幸せになるために生きるのではない。生きるために幸せを求める。」



・幸せになるために、人々は努力する。しかし持続する「幸せ」という感覚が手に入ることはなく、さらに努力する。

・わたしたちはおなじ環境下に生きる他者と比較して自分が「幸せ」かどうかを判断する存在だ。しかし現代では通信手段がグローバル化したせいで、自分以上にうまくやっている人が必ずどこかにいる。

・実際には昇進したり大金を手にしてもそれほど幸せになれるわけではないけれど、でもわたしたちは「頑張らなきゃ」とつねに感じてしまう。


上のような矛盾に対して、ダニエル・ネトルは科学的にとても丁寧に検証している。そしてある答えを導く。
これらの行動は、僕らの祖先から進化的にプログラムされているということ!
つまり、はるか昔は現代と異なり、一つの間違いで強者に殺されてしまうような時代だ。その中で人間は柔軟に対応し、生き残るために努力し続けなければならなかった。そうして生まれたのが「幸福」という概念であり、努力し続けるために、幸福というつかみどころのないものを追い求める。けれども決して永遠の幸福をつかむことはできない。永遠の幸福をつかむとき、それは生き残るための努力をやめてしまうときだから。


幸福を追い求める中で上のような矛盾には気付いてた。多分。
そこに幸福が無いってことに気付いていて、違う道を行こうとして、それをしない人を蔑んでいた。
けど結局それも正しくない。決して間違っているわけではないかもしれないけど、正しいわけでもない。
というか正しいものなんて無い。いや、というよりは全てが正しい笑
けど、そういうことに今の若い世代の人は気付いてきてる気もする。

全てを、自分以外を、自分を認めようと思える。
人と比較して、長い間苦しんでいた。自分より上がいることに、下がいることに、そんな見方をしてしまうことに。
みんな似たようなもんかな、と思える。
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by santos0113 | 2010-03-12 13:38 | book

3月11日 日記

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こんなに強い気持ちを抱くのは久々で、戸惑う。
僕は、僕が大事だと思う人達に分かってもらいたいと願う。
願う一方でどうせ分かってくれないだろうと絶望感のようなものを抱く。
そしてそのような自分に激しい嫌悪感といらだちを覚える。頭をかきむしりたい衝動に駆られる。
もう、誰か意識が飛ぶまで殴って蹴り飛ばしてくれよと思う。
こんなにも不安なのは、何も分からないのは。
きっと本気で分かろうとした経験が無いからなのでは、と思う。
分かってほしい、分かってくれ、と願いながら
衝突を避けてきた僕は何かどす黒いものを抱えている気がする。
何が正しくて何が間違ってるのか分からない。
けど、これは確実に悪いものだろう。
僕の、人に見せたくない醜い部分だ。
消えてなくなれと願う。
僕は信じるしかない。
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by santos0113 | 2010-03-11 02:08 | diary

愛するということ

愛するということ

Erich Fromm / 紀伊國屋書店

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この小さな本は、愛は技術であるという前者の前提の上に立っている。

愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。

愛に学ぶことなんてないという態度は、いくつかの前提の上に立っている。
①たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。
②愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思い込みである。愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手を見つけることは難しいと考えている。
③恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。

①―「愛されキャラ」「モテ子になりたい」なんて言葉を良く耳にすることを考えれば、納得できる。
②―「恋愛はしたいけど、いい人いないなぁー」といった感じ?現代社会の発展と関連したいくつかの理由がある。
・以前は、愛は結婚へと至ることもありうる自発的な個人体験ではなかった。結婚は社会的な配慮に基づいて取り決められるものであり、結婚した後ではじめて愛が生まれるのだと考えられていた。ところがここ数世代の間に、ほとんどの人が「ロマンティック・ラブ」すなわち結婚に結びつくような個人的体験としての愛を追い求めている。自由な愛という概念によって対象の重要性が大きくなった。
・現代人の楽しみとは、わくわくしながらショーウィンドウをながめたり、現金であれ月賦であれ、買えるだけのものは何でも買うことである。誰もがそれと同じような眼で人間を見ている。何が人を魅力的にするかは、肉体的にも精神的にも、その時代の流行に左右される。人間の愛情関係が、商品や労働市場を支配しているのと同じ交換のパターンに従っている。
③―たがいを隔てていた壁を取り払い、親しみを感じ、一体感を覚える瞬間は、胸のときめく瞬間だ。しかしやがて反感、失望、倦怠が最初の興奮の名残を消し去ってしまう。互いに夢中になった状態、頭に血が上った状態を、愛の強さの証拠だと思い込む。

フロムは、愛は技術であり、それを習得するためには努力が必要としている。その過程として、
・理論に精通すること
・習練に励むこと
・技術を習得することが自分にとって究極の関心ごとにならなければならない
としている。

愛の理論について。
人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ。人間の、統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人々と何らかの形で接触しない限り、人は発狂してしまうだろう。

孤立しているという意識から不安が生まれる。そればかりでなく、孤立は恥と罪悪感を生む。…人間の最も強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。

その欲求に対して
どのような答えを出すかは、ある程度、その人間がどれくらい個人として独立しているかによる。幼児はまだ母親との一体感をもっているので、母親がそばにいる限り、孤立感を覚えることはない。ところが、孤立感や個人としての意識が大きくなるにつれて、別の方法で孤立感を克服したいという欲求が生まれる。

そしてその孤立感を克服するために人間がとる方法としていくつか挙げられている。
①興奮状態による合一
②集団、慣習、慣例、信仰への同調にもとづいた合一
③創造的活動

順に説明すると、
①はいわばお祭りの乱痴気騒ぎのようなもの。集団的な興奮状態を経験した後、しばらくは孤立感にそれほど苦しまずにすむ。しかし、そうした共同の行事を捨ててしまった社会に生きる個人は、アルコールや麻薬といった方向に進む。興奮状態が過ぎると一層孤立感が深まり、ますますアルコールなどの助けを借りる羽目になる。
セックスによる興奮状態の助けを借りるという解決法はそれとはすこしちがう。性的な交わりは、ある程度、孤立感を克服する自然で正常な方法である。しかし、他の方法で孤立感をいやすことのできない人々の場合、これは絶望的な試みであり、結局は孤立感を深めてしまう。
②は、現代社会でもっとも一般的な方法である。集団に同調することによって、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になる。これにより孤独という恐ろしい経験から救われる。いかにして合一感を得るかという問いには、どうしてもなんらかの答えが必要なのであり、他に良い方法がないなると、集団への同調による合一が一番良いということになる。たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求に気付いてすらいない。
平等という言葉がある。搾取の廃止、すなわち利用の仕方が残虐であれ「人道的」であれ、人間が人間を利用することの廃絶、これが平等の定義である。現代の資本主義社会では、平等の意味は変わってきている。今日、平等といえば、それはロボットの、すなわち個性を失った平等である。現代では平等は「一体」ではなく「同一」を意味する。
③には、芸術的な物もあれば、職人的なものもある。どんな種類の創造的活動の場合も、創造する人間は素材と一体化する。ただし、このことがあてはまるのは、生産的な仕事、すなわち私が計画し、生産し、自分の眼で仕事の結果をみるような仕事のみである。

生産的活動で得られる一体感は、人間同士の一体感ではない。祝祭的な融合から得られる一体感は一時的である。集団への同調によって得られる一体感は偽りの一体感にすぎない。ではどうすればいいのか。
そこで出てくる完全な答えが、人間同士の一体化、他者との融合、すなわち愛にある


大事なのは、「愛」と言ったとき、どういった種類の結合の事を言っているのかを、私たちが了解していることだ。

結論から言うと、
成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、二人が一人になり、しかも二人であり続けるという、パラドックスが起きる。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛の能動的な性格を、分かりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、ということができよう。

愛は与えること、では何を、どうやってあたえればいいのか??
自分自身を、自分のいちばん大切な物を、自分の生命を、与えるのだ。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

自分の生命を与えることで、他人を豊かにすること。それだけではない。
与えるということは、他人をも与える者にするということであり、たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かち合うのである。

愛に限っていえば、こういうことになる。
愛とは、愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことが出来ないということである。


与えるという意味で、その人を愛することができるかどうかは、その人の性格がどの程度発達しているかということによる。
愛するためには、性格が生産的な段階に達していなければならない。

生産的な段階とはすなわち、自分の外にある目的のためにエネルギーを注ぐということであり、また自分に本来備わっている力を用いるということである。与えるという行為は自分のもてる力のもっとも高度な表現である。

また、愛の能動的性質を示しているのは、与えるという要素だけではない。配慮、責任、尊敬、知である。
愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。愛の本質は、「何かを育てる」ことにある。
責任は、母子の関係についていえば、生理的欲求に対する配慮を意味する。おとなどうしの愛の場合は、相手の精神的な求めに応じることである。責任とは、他の人間が何かを求めてきたときの、私の対応である。
責任は、尊敬が欠けていると、容易に支配や所有へと堕落してしまう。そして人を尊敬するには、そのひとのことを知らなければならない。他者と生産的に融合したとき、私はあなたを知り、私自身を知り、すべての人間を知る。


生産的に愛するには、信じること(信念)が必要だ。自分の愛は信頼に値するものであり、他人のなかに愛を生むことができると「信じる」こと。そして、たとえば母親が子供の成長を信じるように、他人の可能性を「信じる」こと。その信念があるかないかが「洗脳」と「教育」のちがいだ。洗脳を行う者は、他人の生命力と可能性を信じていない。一方、教育とは、他者が可能性を実現してゆくのを助けることだ。そして信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望さえも受け入れる覚悟である。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない



僕はロボットのような世界を、蔑んでいるのだろうと思う。
そして世界を知りもしないで決めつける自分を、世界を愛することのできない自分を、蔑んでいると思う。
愛を阻んでいるのは、自分のなかの偏見や思い込みではないか。
偏見や思い込みが生まれるのは、良く知らないからではないか。
僕が今必要としているのは、自分を、世界を知ることではないか。
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by santos0113 | 2010-03-10 17:22 | book

日本の風景・西欧の景観―そして造景の時代

日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)

オギュスタン・ベルク / 講談社

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第1章
風景という観念は文化的アイデンティティと密接に結びついているので、文化によって様々に変化する。

あらゆる文化とあらゆる時代に共通の基本的な特徴というものがいくつか存在することも確かである。

われわれは諸文化間のコントラストを過大評価しがちであり、時としてそれらの間に単純きわまる二項対立を持ち込み、絶対的な対立物を明確なものにしようとして現実を戯画化してしまうほどでもある。…特にしばしば、それも絶対的なものとして対立させられるのは、日本庭園とフランス式庭園である。

どちらも人間の考え出した自然というものを、それなりのやり方で表現しているにすぎない。…彼らの文化に固有の自然についての概念を表現している以上、誰もが正しいのである。


第2章
人間は風景を観賞し解釈するやり方において、すなわち知覚した情報の処理法において違いを見せる。…われわれは自身の属する文化に促されて、風景を肯定的に否定的にも観賞・評価するし、またそればかりではなく、風景の側面のいくつかを知覚したり、あるいはしなかったりもする。
つまり風景は現実の事物に関する情報と、もっぱら人間の脳によって練り上げられる情報の両方で構成されているのである。

『日本の環境』『日本の風景』このふたつの言葉の間の関係は一方通行的な物ではない。事実社会は環境に対して行う整備に応じて、その環境を知覚するし、また近くに応じて環境を整備する。…日本の風土はこのような複雑さにも関わらず、ある種の一般的な傾向で特徴づけられていて、それらの傾向は環境と風景の両方に類比的に表現されている。

日本の風景の美学は多中心的と形容できる。…日本の風景は永続的な適合の状態にある。生成の状態にある風景なのである。

近代的な主体は自分自身と事物の間に根源的な区別を設け、自然に関する近代の科学の基本的な客観性を確立する。…同時にその主体は『環境』をありのままのものとして、つまり客体として発見する。


第3章
今日では日本の風景において―ということはすなわち物質的形態とそれらを知覚するやり方の双方においてということだが―西欧の影響を受けているものといないものを見分けるのがきわめて難しくなっている。

確実なのは、明治期に美的モデルが大量に導入されたことによって、日本のエリート層の知覚の図式が大きく変化したということである。…教養ある都市生活者は日本の自然に西欧の価値の浸透した視線を注ぐようになる。

文化交流の流れはけっして一方通行にとどまることはなく、ペリー提督の来航に引き続く日本の開国以前においてさえすでに逆の流れがあったことも事実である。(ジャポニズムへのきっかけ)

ジャポニズムの流行は、近代の初頭にヨーロッパで生じた風景の揺らぎということの徴候のひとつと見ることが出来る。…観察者と絵と表現される対象の間の区別が希薄になっていく。

われわれが風景を知覚するときには、つねに想像力の世界が介入してくることになる。風景という、主体と客体対象の間の関係の現実においては、主観的な物は必然的に客観的な物と合成され、主体と客体という近代の二分法が有効性を失うのである。

二元論的思考は都市や住居に具体的に適用させるのが困難なのであった。そして近代の運動とともに最終的にそれが達成されたとき、わずか数十年でその分野における弊害が明らかになり、感情的な拒否反応が現れることになる。


第4章
人間の手の加わった空間に先立って野生の空間が存在したのではなく、事実はむしろ逆なのである。野生の空間は、歴史の流れの中で生まれた。(風景的にいえば)

日本では確実に、弥生時代の稲作の導入が野生の空間(山)の知覚の在り方を根本的に変えた。事実、水田が恒久的に集約された形で存在することは、牧畜の発展があまり見られないことと相まって、耕作地と森の間に強烈なコントラストを生んだ。…おそらくこのようなコントラストの強さのために、神道において野生の空間に聖性が認められるようになったのであろう。

日本では『山』の美化は二段階で行われた。新しい方は明治期のヨーロッパの風景図式の導入の時にさかのぼる。古いほうは中国からの文学・絵画のモデルの影響を受けて、奈良時代から確立されてきた。

海岸風景の場合にも、山岳風景の発見とかなり類似したプロセスが展開された。…しかしながら高山の場合とは異なり、海岸の絵画表現は近代の習慣に先立って存在していた。…山の場合とのもうひとつの相違としてあげられるのは、日本では西欧に門戸を開いた後にも、海岸のとらえ方には根本的な変化がもたらされなかったということである。

そこには中国から学んだ美的図式を超えて日本人固有の傾向が見られるのであり、これはもちろん日本列島の自然条件と関連付けて考えなければならない。


第5章
象徴のレヴェルで田園が規定されるのは、都市を出発点としてである。田園は都市の住民によって田園として知覚され、したがって田園として存在し始めるのである。

至る所で農民は自分のいる環境について親密な知識を持っている。けれどもそれを風景として見るには、特別な知覚の図式を獲得していなければならない。そしてこの図式は都市の文化から出てきたものなのである。

客体対象の観点からも、主体の観点からも、風景に関する本質的な事実といえるのは、田舎に住む人のなかに、住居をそこに構えるという点以外ではまったくの都市生活者であるような人の数が増加しつつあるということである。


第6章
日本の都市の起源には『都』がある。…都の存在を原則的に規定するのは『宮』、すなわち宗教と政治の混淆した儀礼の行われる神道の聖域である。ところで『宮』は自然と分かちがたく結びついている。…日本では都市文明の最高度の形態が自然を指向するということである。

緑の空間の問題は日本の都市の性格に関してはとりわけ決定的な意味を持つということであり、したがってまたその問題を取り扱い際に西欧の諸都市をモデルにした処方に頼ってはならないということである。

住居と都市の間に統合作用の欠如していることは、都市においてさえ住居が自然環境を指向することにこだわり、都市という構築された環境にはむかわないという事実に由来すると考えられよう。

東京の風景の無秩序について語るとすれば、ひとつにはこれは東京では個人の家や企業のビル(ミクロコスモス)が都市(メゾコスモス)の形態に対して相対的に独立して数を増やすことが出来るからであり、また他方では江戸の町の都市としての骨組みが基本的には自然の目印(マクロコスモス)との関係で組織化されていたからである。ところがこの都市のその後の変化を見ると、このような目印の多くは次第に消されていった。


第7章
日本では、このような『都市農村混合型』の風景が現在拡大しつつあることは、すでに江戸時代にあらわれていた傾向に対する断絶を意味するものではない。

それに対してヨーロッパでは、深刻な危機が生じていて、これがしばしば『風景の死』として受け止められている。…都市のメゾコスモスが統合の原則をもとにし、全体が部分に対して優位を占める限り、ちょっとしたことでその基盤となる調和が損なわれてしまう。…ヨーロッパに都市風景を再生させるものがあるとすれば、都市のメゾコスモスの統合という基本的な原則を尊重する新たな形態の創造である。

現今の時代にあっては、新しいパラダイムは世界規模の物にしかなり得ない。それはそれとして、この新たなパラダイムは西欧の伝統とは別な文化的伝統のなかにすでに現れている非西欧的な特徴を必然的に内包することだろう。風景が問題になると、伝統的な日本文化の特徴のいくつかがこの新しいパラダイムの構想を助けてくれる。
Ⅰ.主体の中心性の弱さ。
Ⅱ.現在主義。回遊式庭園における視点の点在は、回遊(場所に中心をおいた現在)に価値を見出すのであって、目的地(キリスト教的時間性に固有の過去―現在―未来という、主体の中心性を基礎づける遠近法的時間軸における未来)に価値を置くのではない。
Ⅲ.並置。一般的な秩序の軽視が徹底されると、あらゆる限定が退けられ、偶然と混沌が重要視されるようになる。

すなわち新しい風景は、西欧で近代の風景の危機から生まれたポスト二元論と、世界が知るようになったもう一つの大きな風景の伝統つまり東アジアの伝統において前提とされる非二元論、この両者の総合から形をとることになるだろうということである。…この新しい風景を『造景』と呼ぼう。

造景の時代への移行は必ずしも風景美の時代への移行を意味しない。けれども…環境をイメージとして生きることは、必然的に美的な配慮を、すなわち美を創りだそうとする真摯な欲求を伴う。

環境を造景すること、原則としてこれは現実に粉飾を施すことではなく、芸術作品の創造なのである。…われわれの前に開ける展望は、われわれの環境が全体として少しずつ芸術作品になっていき、こうしてわれわれの文化の最も高い価値を生態学的に表現するようになるということである。


まとめる。

風景とは何ぞや、というところから入る。
・風景というのは、その人の文化によって見方が変わるものであり、風景を肯定的に否定的にも観賞・評価するし、またそればかりではなく、風景の側面のいくつかを知覚したり、あるいはしなかったりもする。つまり誰にでも同じ見え方をしていると思ったら間違いだということ。
・それでも感じるものに共通の特徴は見いだせる。それをベルクは「元風景」としている。
・しばしば日本人はフランス庭園のような様式を自然的でない、とする。その逆も然り。しかし日本人にしても、フランス人にしても、それぞれの自然をそれぞれのやり方で表現しているだけ。どちらが正しい、ではない。

そもそも風景という観念はどこから生まれたか。
・風景という観念は、ヨーロッパでは16世紀になってようやく現れる。風景を意味する言葉は古代ギリシャ語にもラテン語にも存在しない。風景という価値観が無かった。
・近代になって、主体は自分自身と事物の間に区別を設ける。「環境」をありのままのものとして、客体として発見する。つまり自分は自分、環境は環境と、完全に別個のものとして分けた。環境が完全に別のものだとすれば、誰にとっても風景は同じものだと言える。
・そこに、ジャポニズムという異質な文化が入ってくる。たとえばより鮮やかなコントラストのある色彩の使用、非対称の尊重、俯瞰的視点の採用など。それはヨーロッパの風景の見方に揺らぎを与えた。
・今までの二元論では何か違うんじゃないか、という流れがやってきた。そして「われわれが風景を知覚するときには、つねに想像力の世界が介入してくることになる。」となる。つまり主体と客体は完全な別モノではなくその二つを合成したところに風景というものがある。

では、現在のような日本と西欧の風景の違いはどう生まれたか。
そのまえに、「野性の空間」に触れておく。
・われわれは野性の空間を犠牲にして少しずつ広がってきたと考えている。→風景の観点からいえば間違い!!
・事実は逆であり、野性の空間は、歴史の流れの中で生まれた。縄文人にとって、野性の空間というものはそれ自体としては存在しなかった。ある空間が、人間によって改変された度合いの低い周囲の場所からはっきり区別され、そうした空間が整備されていくにつれ、また相関的に人間が存続のために自然の富よりも自身の労働の産物にいっそう依存するようになるに従って、生まれた。

・日本では確実に、弥生時代の稲作の導入が野性の空間(山)の知覚の在り方を根本的に変えた。耕作地と森の間に強烈なコントラストを生み、このコントラストのために神道において野性の空間に聖性が認められるようになった。「山」は日本人の環境の知覚にとって、ヨーロッパ人にとっての「森」よりもはるかに個別化の進んだものだった。
・中国から学んだ美的図式を超えて日本人固有の傾向が見られるのであり、これはもちろん日本列島の自然条件と関連付けて考えなければならない。
・日本の都市の起源には『都』がある。…都の存在を原則的に規定するのは『宮』、すなわち宗教と政治の混淆した儀礼の行われる神道の聖域である。ところで『宮』は自然と分かちがたく結びついている。…日本では都市文明の最高度の形態が自然を指向するということである。
・住居と都市の間に統合(作用)の欠如していることは、都市においてさえ住居が自然環境を指向することにこだわり、都市という構築された環境にむかわないという事実に由来すると考えられる。
・たとえば東京の風景の無秩序について語るとすれば、ひとつにはこれは東京では個人の家や企業のビル(ミクロコスモス)が都市(メゾコスモス)の形態に対して相対的に独立して数を増やすことができるからであり、…江戸の町の都市としての骨組が基本的には自然の目印(マクロコスモス)との関係で組織化されていたからである。ところがこの都市のその後の変化を見ると、このような目印の多くは次第に消されていった。

要は、稲作の普及とともにまず耕作地と自然(マクロコスモス)が分けられ、アニミズム的宗教が誕生した。その後、都市(メゾコスモス)が形成されていったが、そこには常に自然(マクロコスモス)を指向するアニミズム的文化が根底にあり、メゾコスモスとしての秩序が西欧ほど強固に発展しなかった。さらに近代になり、自然(マクロコスモス)指向という文化が薄れていったときに、残ったのは個人(ミクロコスモス)中心の空間だった。
なるべくして、今の日本が出来上がった、と言えるのかもしれない。

日本も捨てたもんじゃない。
ヨーロッパはヨーロッパである絶望的な問題を迎えていて、それは日本文化という異物によって、解消されるかもしれない。
日本文化の特徴
Ⅰ.主体の中心性の弱さ。
Ⅱ.現在主義。回遊式庭園における視点の点在は、回遊(場所に中心をおいた現在)に価値を見出すのであって、目的地(キリスト教的時間性に固有の過去―現在―未来という、主体の中心性を基礎づける遠近法的時間軸における未来)に価値を置くのではない。
Ⅲ.並置。一般的な秩序の軽視が徹底されると、あらゆる限定が退けられ、偶然と混沌が重要視されるようになる
西欧で近代の風景の危機から生まれたポスト二元論と、東アジアの伝統において前提とされる非二元論、この両者の総合から形をとることになるだろうということである。…この新しい風景を『造景』と呼んでいる。

極端に簡単にすると、
昔は風景という観念が無かった

近代、風景という観念を発見

今の「見る」だけの風景に限界が訪れる

これからはみんなが「造る」風景の時代だ!
そしてそれを造るためには日本の文化がヒントになる。

ってことで…良い…のかな??笑

まとめきれず。。。


でも分かるのは、日本の町並みが汚い、汚い、と言われ続けているけど、だからといってヨーロッパを模倣すればいいような問題ではないこと。そしてその汚い日本の町並みの奥には、ひょっとしたら可能性があるということ。可能性を追求するためには、日本のたどってきた文化をより深く知る必要があるということ。そしてそれを繰り返すのではなく、現代における姿を再考すること。
こんなことが求められているのではないかなー、と。

もっといろいろ知って、また読み返す必要がありそう。
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by santos0113 | 2010-03-08 02:15 | book