文化的景観

松戸の新居に引っ越しました。友達とのシェアです。
部屋のインテリアとか考えてぬふぬふしちゃうけど金がないので実現には至りませぬorz
とりあえずミニコンポだけはケチらずにいずれ買いたいので、節約生活をする。
家計簿つけよう。これまで3回ほどチャレンジして一瞬で挫折してきた家計簿だけど
最近は筋トレにジョギングに続いてるのでちょっと期待。ってかやろう。

大学が徒歩5分の場所になったので好きな時に図書館に行けるようになったのが最高。
でも今まで延滞しすぎてもう借りることが出来ないので、持ち出しはできないのは最悪。馬鹿俺。

もう4年。卒論のテーマ決めで悩んでます。

「景観」という言葉。景観法という法律があるにもかかわらず定義はされていない変な言葉。
今まで景観は「美しさ」を基準に評価されていた。
大正8年の史跡名勝天然記念物保存法から平成16年の景観法に至るまで、それは一貫している。
そこに文化的景観という言葉が出てくる。

文化的景観とは
地域における人々の生活または生業および当該地域の風土により形成された景観地で、わが国民の生活または生業の理解のために欠くことが出来ないもの。

つまりは、棚田であったり、京都宇治のようなものをいう。
文化的景観と、例えば法隆寺のような文化財とはどう違うのか。
法隆寺という、すでに出来ているもの、変わらないものについては、それを維持することは可能だ。
しかし文化的景観は、活動があって初めて成立、持続している景観だ。
法隆寺は、変わらないある固定のものを維持していけば良いのに対し、
文化的景観が守るべきものは、その活動だというところに大きな違いがある。
文化的景観は生きている景観であり、人の活動によって成り立っている以上変化するのが自然な景観なのである。文化的景観は美しくある必要はない。

文化的景観は変化するもの。でも、その変化にも許容範囲がある。
例えば宇治に高層ビルが林立してしまえば、それは破壊だと言えるのではないか。
じゃあ何が変化の許容範囲内で、また範囲外なのだろうか。

それは
生命体としての自己組織化の原理
に基づいているかどうかではないか。
つまり他に頼ることなく、それ自身のみで存在することが出来るかどうかだ。
文化的景観は生き物であり、自己組織化する。
また人間が、私が私であることを保持できるのは、自分の過去の記憶が不可欠である。
文化的景観の保護と言うとき、それは
「自己組織化」と「自己同一性」
の保護と言えるのではないだろうか。

文化的景観のような生きている景観に対し、ロボットのような景観が増えている。
文化的景観自体も、人手不足だったりして存続の危機に陥っているところを見ると、ちゃんと生きているとはいい難い。

生きている景観を保全、つくり出すためにはどうすればいいだろうか。

表出されたものから、表出するものへ。

オギュスタンベルクの文章にもあった気がする。
「見る」風景から、「参加する」風景に変わっていく必要がある。
景観がいろんな層から成り立っているということを、それぞれが理解しなければならない。
オギュスタンベルク「日本の風景・西欧の景観―そして造景の時代」より
すなわち新しい風景は、西欧で近代の風景の危機から生まれたポスト二元論と、世界が知るようになったもう一つの大きな風景の伝統つまり東アジアの伝統において前提とされる非二元論、この両者の総合から形をとることになるだろうということである。…この新しい風景を『造景』と呼ぼう。
造景の時代への移行は必ずしも風景美の時代への移行を意味しない。けれども…環境をイメージとして生きることは、必然的に美的な配慮を、すなわち美を創りだそうとする真摯な欲求を伴う。




僕が今までうまく言葉にできなかった綺麗な景観というのは、つまり生きている景観だったかもしれない、と思う。
パーマカルチャーとも関連するんじゃないか。
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by santos0113 | 2010-04-02 21:14 | diary
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