庭園史をあるく

庭園史をあるく―日本・ヨーロッパ編

加藤 允彦 / 昭和堂


日本編とヨーロッパ編に分かれているのでとりあえず日本編から。

●東アジアの庭園
日本の庭園を知る上で東アジアの庭園は欠かせない。
1.古代中国の庭園
○周時代までの庭園
約3000年前、周王朝が成立する時代。稲作文化は山東半島を含む黄河下流域にまで広がっていた。この頃には家屋の前には庭ができ、囿や園圃に近い状態にまで進んでいたと考えられる。
水田耕作のはじまりとともに人々は身近に花の咲く草花をみることができるようになり、花を観賞する心も培われていったと考えられ、庭の植物も実用性のみでなくなった。
○秦・漢時代の庭園
広大な囿である上林苑の発生。
太液地に三神仙島を設け、金石を刻して獣の属をかたどり池中に配している。
漢代に至って苑池園林はほぼ完成したとみられる。
○三国・南北朝時代の庭園
紀元後220年曹丕が漢を滅ぼして魏を建国して以降、589年隋文帝が中国全土を統一するまでの間は中国は大いに乱れたが、日本の古代国家成立に向けての基層となる文化が成熟していった。
498年には閲代堂に芳楽苑を起して山石には皆五彩をもって塗り、池水をまたいで紫閣をたてるなど、技巧をこらし華美な趣向も目立つようになる。
366~371年のころに曲水の文化が出てくる。

2.古代朝鮮の庭園
○古代朝鮮の概要
古代朝鮮は、ツングース系・モンゴル系・東夷系の三つの異なる文化をもった民族が、中国の影響を受けながら独立し、朝鮮半島における三国時代を迎えることになる。
○百済の庭園
291年、宮室を重修し、苑池を造成。
500年、熊津城の宮の東に高さ五丈の臨流閣を建て池を穿ち奇禽を養っている。
655年、望海楼を重修。扶蘇山と錦城山を背景に広大な海のような池に臨んで建てられていたと考えられている。
○新羅の庭園
674年、「宮内に池を穿ち山を造り、草花を植え珍禽奇獣を飼養した」これが新羅の宮苑池の始まりとされる。
○渤海の庭園
高句麗の遺民を中心に渤海国が698年中国東北地方の地に建国される。
上京龍泉府の王宮の東に、庭園のある一角があることがわかっている。
「中ほどやや北寄りに池があり、池には島が二つあり、島には亭が建っていた。池の北には殿舎があり、平面は平等院に似ている」と報告されている。

●日本庭園の黎明
ちなみに僕は分からなかったんだけど、黎明=新しい時代・文化などが起ころうとする時期
1.原始時代の造園土木
○縄文時代
縄文時代においても低密度ではあっても栽培農耕があったと考えられるようになってきている。
また、建築では竪穴住居が主ではあるが、しっかりとした建築工法や大規模な建築物の存在が確認できる遺構が検出されている。
縄文時代の遺構の特徴として石材が多用されていることが挙げられる。
○弥生時代
農耕、特に稲栽培が本格的にはじめられた時代。
稲作の生産力が増大し、地域の経済力も大幅に向上。それにより多くの「クニ」にまとまって相争うようになった。
相当立派な建物が知られているが、これまでに庭園に関するような遺構は発見されていない。
しかし、水田経営に伴い水を管理する技術は発達し、木竹を使って水を堰止めたり、水路を保護する遺構などが確認されている。
○古墳時代
この時代は大きな石材を組み上げ、固い石を加工するなど進んだ技術を身近な物にしていた。
また、「クニ」の統合や政治的連合などが進み、ヤマト王権が確立し国家が成立してゆく時期になる。
この時代になると、「日本書紀」にも庭園に関連する記事が記載されるようになる。しかし中国の典籍からの引用などが目立ち、慎重な判断を要する。
宅地を区画し、蔬菜を栽培したりするような実質的な「ニハ」空間が成立し、自然観照的な美意識が確立していた段階とみることが妥当。
・池溝の開発と古墳の築造
この時代は特に「池溝の開墾は国家的事業として行われ」「古代の農事振興に重要な役割を」持っていた。
池溝の造開を行い水田経営を積極的に進めた豪族たちは、その墓所である古墳を開発した地域を望むところに造営した。こうした古墳の石室を組み上げる石組技法は、後に庭園の滝を組む技術につながるものである。

2.飛鳥時代の庭園


※『「縮み」志向の日本人』

続く
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by santos0113 | 2010-03-30 00:45
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