茶の本

茶の本 (岩波文庫)

岡倉 覚三 / 岩波書店

スコア:


岡倉天心が1906年に出した、僅か90ページほどの薄い本。
岡倉天心、、すごい。
読み始めてわずか6ページで僕は胸に熱いものがこみ上げるのを抑えられない。
岡倉天心が述べていることは、つまりはフロムの「愛するということ」と共通する部分はないか。
お互いを完全に理解することなんて不可能だ。それでも、認め合うことはできる。お互いの短所長所を補い合うことはできる。
日本という国が積み重ねてきた文化のレベルの高さに、そしてそれが崩れている現代を思い知る。
それにしても今から100年以上も経っているというのに、内容の色あせなさに驚く。
100年の間に僕らが行ってきたことは、結局のところ何も変わりなどしなかったのだろうか。
あるいは、ますます良いとは言えない方向に向かっているのだろうか。

第一章
茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能な物を成就しようとするやさしい企てであるから。

煎ずるところ人間享楽の茶碗は、いかにも狭いものではないか、いかにも早く涙であふれるではないか、無辺を求むる渇のとまらぬあまり、一息に飲みほされるではないか。

おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見逃しがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例にすぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮人とみなしていたものである。しかるに満州の洗浄に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。…もしわれわれが文明国たる為には、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。

アジアの青年は現代的教育を受けるために、西洋の大学に群がってゆく。われわれの洞察力は、諸君の文化に深く入り込むことはできない。しかし少なくともわれわれは喜んで学ぼうとしている。

諸君はわれわれを「あまり茶気があり過ぎる」と笑うかもしれないが、われわれはまた西洋の諸君には天性「茶気がない」と思うかもしれないではないか。
東西両大陸が互いに奇警な批評を飛ばすことはやめにして、東西互いに得る利益によって、よし物がわかって来ないとしても、お互いにやわらかい気持ちになろうではないか。お互いに違った方面に向かって発展して来ているが、しかし互いに長短相補わない道理はない。諸君は心の落ち着きを失ってまで膨張発展を遂げた。われわれは侵略に対しては弱い調和を創造した。諸君は信ずることができますか、東洋はある点で西洋にまさっているということを!

現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大な努力によって全く粉砕せられている。世は利己、世俗の闇に迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利の為に行われている。東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜のごとく、人生の宝玉を得ようとすれどそのかいもない。
…まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しいとりとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。


第二章
茶室の調子を破る一点の色もなく、物のリズムをそこなうそよとの音もなく、調和を乱す一指の動きもなく、四囲の統一を破る一言も発せず、全ての行動を単純に自然に行う―こういうのがすなわち茶の湯の目的であった。そしていかにも不思議な事には、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。茶道は道教の仮りの姿であった。


第三章 道教と禅道
茶の湯は禅の儀式の発達したものであるということはすでに述べたところであるが、道教の始祖老子の名もまた茶の沿革と密接な関係がある。…道教と禅道とに対する興味は、主としていわゆる茶道として実際に現れている、人生と芸術に関するそれらの思想に存するのである。

「道」は「径路」というよりもむしろ通路にある。宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとして絶えずめぐり来る永遠の成長である。…「道」は大推移とも言うことが出来よう。主観的に言えば宇宙の気であって、その絶対は相対的なものである。

「一定」「不変」は単に成長停止を表す言葉に過ぎない。屈原いわく「聖人はよく世とともに推移す。」われらの道徳的規範は社会の過去の必要から生まれたものであるが、社会は依然として旧態にとどまるべきものであろうか。

われわれは恐ろしく自己意識が強いから不道徳を行う。おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。他人に真実を語ることを恐れているから良心をはぐくみ、おのれに真実を語るを恐れてうぬぼれを避難所にする。世の中そのものがばかばかしいのにだれがよくまじめでいられよう!といい、物々交換の精神は至る所に現れている。…男も女も何ゆえにかほど自己を公告したいのか。奴隷制度の昔に起源する一種の本能に過ぎないのではないか。

道教がアジア人の生活に対してなしたおもな貢献は美学の領域であった。…道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂き世の中にも美を見出そうと努めている。

もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば、人生の喜劇はなおいっそうおもしろくすることができると。もののつりあいを保って、おのれの地歩を失わず他人に譲ることが浮世芝居の成功の秘訣である。われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。

芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によって分かる。何物かを表さずにおくところに、見る物はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強く引き付けてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる

禅の主張によれば、事物の大相対性からみれば大と小との区別はなく、一原子の中にも大宇宙と等しい可能性がある。極致を求めんとするものはおのれみずからの生活の中に霊光の反映を発見しなければならぬ。…茶道いっさいの理想は、人生の些事の中にでも偉大を与えるというこの禅の考えから出たものである。道教は審美的理想の基礎を与え禅はこれを実際的な物とした。


第四章 茶室
茶室はある個人的趣味に適するように建てらるべきだということは、芸術におけるもっとも重要な原理を実行することである。芸術が充分に味わわれるためにはその同時代の生活に合っていなければならぬ。それは後世の要求を無視せよというのではなくて、現在をなおいっそう楽しむことを努むべきだというのである。また過去の創作物を無視せよというのではなくて、それをわれらの自覚の中に同化せよというのである。伝統や形式に屈従することは、建築に個性の現れるのを妨げるものである。

「数寄屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均整を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。…真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。人生と芸術の力強いところはその発達の可能性に存した

第五章 芸術鑑賞
美術鑑賞に必要な同情ある心の交通は、互譲の精神によらなければならない。美術家は通信を伝える道を心得ていなければならないように、観覧車は通信を受けるに適当な態度を養わなければならない…名人にはいつでもごちそうの用意があるが、われわれはただみずから味わう力がないために飢えている。

われわれの限定せられた性質、代々相伝の本賞はもちろんのこと、慣例、因襲の力は美術観賞力の範囲を制限するものである。われらの個性さえも、ある意味においてわれわれの理解力に制限を設ける物である。そして、われらの審美的個性は、過去の創作品の中に自己の類縁を求める。もっとも、修養によって美術観賞力は増大するものであって、われわれはこれまでは認められなかった多くの美の表現を味わうことができるようになるものである。が、畢竟するところ、われわれは万有の中に自分の姿を見るにすぎないのである。すなわちわれら特有の性質がわれらの理解方式を定めるのである。


第六章 花
喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。…花無くてどうして生きていかれよう。花を奪われた世界を考えてみても恐ろしい。

悲しいかな、われわれは花を不断の友としながらも、いまだ禽獣の域を脱することあまり遠くないという事実をおおうことはできぬ。…花を飾るのは富を表す一時的美観の一部、すなわちその場の思いつきであるように思われる。これらの花は皆その騒ぎの済んだあとはどこへ行くのであろう。しおれた花が無情にも糞土の上に捨てられているのを見るほど、世にも哀れな物はない。

どうして花はかくも美しく生まれて、しかもかくまで薄命なのであろう。虫でも刺すことができる。最も温順な動物でも追いつめられると戦うものである。ボンネットを飾るために羽毛をねらわれている鳥はその追い手から飛び去ることができる、人が上着にしたいとむさぼる毛皮のある獣は、人が近づけば隠れることが出来る。悲しいかな!翼ある唯一の花と知られているのは蝶であって、他の花は皆、破壊者にあってはどうすることもできない。彼らが断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわれらの無情の耳へは消して達しない。

しかしあまりに感傷的になることはやめよう。奢る事をいっそういましめて、もっと壮大な気持ちになろうではないか。…われわれはいずれに向かっても「破壊」に面するのである。変化こそは唯一の永遠である。

花をちぎる事によって、新たな形を生み出して世人の考えを高尚にすることができるならば、そうしてもよいではないか。われわれが花に求むるところはただ美に対する奉納を共にせん事にあるのみ。われわれは「純潔」と「清楚」に身をささげることによってその罪滅ぼしをしよう。こういうふうな論法で、茶人たちは生花の法を定めたのである。…茶人たちは、花を選択することでかれらのなすべきことは終わったと考えて、その他の事は花みずからの身の上話にまかせた。

[PR]
by santos0113 | 2010-03-15 23:19 | book
<< 3月16日 日記 チャリティほにゃらら >>